July 31, 2020
お茶にまつわる人物|村田珠光

絢爛豪華で単に楽しむためのものだった茶会を、精神性を追求する「茶の道」へと変化させる基礎を見いだした、村田珠光をご紹介します。

村田珠光とは

村田珠光(1422~1502)は大和国(現・奈良県)に生まれました。珠光は、成長し浄土宗・称名寺に入寺しますが、出家することを嫌い京で能阿弥に師事します。そこで茶の湯・和漢連句・能・立花・唐物目利きを習い、能阿弥の推薦で足利義政の茶道師範となったといわれています。また、臨済宗の僧・一休宗純とも交流があり、彼から禅を学びました。そして、これらの経験を基に「侘び茶」の基礎となる精神を見いだしました。珠光の時代は、舶来品を愛でながら茶を楽しむ豪華な茶会(殿中の茶)が中心でしたが、珠光が見いだした「新しい茶の湯」の精神が、珠光の死後も弟子に受け継がれ、やがて今日の茶道へとつながっていくのです。

村田珠光が目指した「侘び茶」

珠光が残した言葉から、珠光の目指した「侘び茶」をみてみましょう。

「物」に関する言葉

珠光は「和漢のさかいをまぎらかすこと肝要」という言葉を残しています。唐物だけを良しとした風潮に対し、日本の焼物のもつ素朴な美しさにも関心を寄せることが肝心だと主張し、新たな美意識を茶の湯の世界にもたらしました。そんな珠光が残した茶道具は「珠光名物」と呼ばれ、そのうちの1つの茶碗を千利休が使用していたとの逸話も残されています。

また「月も雲間のなきは嫌にて候(光輝く満月よりも、雲の間に見え隠れする月の方が趣があり良い)」という言葉からは「不足の美」を良しとする、「新しい茶の湯」の姿が見えます。この美意識は茶室を作る際にも影響し、珠光は茶室を四畳半という狭い空間に区切り、装飾を排することで現れる美を目指したのです。

「心・精神」に関する言葉

禅の影響を受けた珠光は「物を極限まで排することで現れる美」を追究しました。そして、物の不足を「心の豊かさ」で補うことを目指したのです。

茶の湯の「心・精神」を重視した珠光は、茶の湯の道にとって最も大きな妨げとなるのは「慢心と自分への執着」であるとし、どんなに上達しても人には素直に教えを請い、初心者にはその修行を助けることを説いています。

さらに、珠光が弟子に宛てた一節に「心の師とはなれ、心を師とせざれ。」があります。「移ろいやすい心に振り回されず、自分が心をコントロールする立場になりなさい」という意味です。珠光は茶の湯を、心をコントロールし自分自身と対峙する「精神修行の場」とすることを目指したのです。

村田珠光に影響を与えた人物

いかにして珠光の考え方が作られたかのか。珠光に強く影響を残した、2人の人物をご紹介します。

能阿弥

能阿弥との出会いなくして、珠光の新しい発想は生まれませんでした。

能阿弥から学んだことは、茶の湯・和漢連句・能・立花など、当時の一流の文化です。それらを学ぶことにより審美眼を磨き、後述の禅の思想が融合することで、珠光の目指す茶の湯が作られました。なかでも和漢連句には、強く影響を受けたと思われます。和歌と漢詩の受け答えを繰り返す和漢連句に親しむことにより、「和漢のさかいをまぎらかす」との考えが生まれたことは、容易に想像できます。和と漢どちらも知った上で融合し、さらに新しいものへ発展させるという考えがここから生まれました。

禅僧・一休宗純

珠光は、「一休さん」として有名な禅僧・一休宗純からも大きな影響を受けています。

禅僧・一休宗純は自由を追い求め、反骨精神にあふれた禅僧でした。珠光は、「無駄を排する禅の教え」や「何ごとにもこだわらず、本質を追い求める心」を一休から学んだのです。

侘び茶は珠光により完成された訳ではありません。しかし、珠光は「佗び茶が目指し、進む道を示す」という重要な役割を果たしたのです。その後、珠光の考えは富裕層の支持を得て広まり、弟子達が研鑚を重ねたことで茶の湯文化の完成につながっていくこととなります。

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