日本茶の歴史|栄西
「茶祖」と呼ばれる栄西。しかし、日本に初めて茶を持ち込んだ人物は、栄西ではありません。では、なぜ栄西が「茶祖」と呼ばれるのでしょうか?その理由を「禅」と「茶」の関係を通して解説します。
栄西とは
栄西(1141~1215)は、10代から天台宗の教えを学び始め、より深く禅宗を学ぶため2度に渡り宗を訪れました。帰国した栄西は、臨済宗の日本における開祖となります。
同時に宗で茶の素晴らしさに触れ、その種を日本に持ち帰った栄西は、臨済宗の布教と同時に茶の栽培方法や茶にまつわる文化を広めました。天台宗からの迫害を受けつつも、臨済宗の布教に努め『興禅護国論』『一代経論釈』などの書物を残しています。
「茶祖・栄西」の功績
この章では禅僧である栄西が、どのように茶と関わった人物なのかご紹介します。
茶の文化を日本に持ち帰り広める
茶は、栄西が生まれる以前から日本に持ち込まれていました。ではなぜ栄西が、日本の「茶祖」と呼ばれるのでしょうか。それは、栄西が、茶の文化を初めて日本に持ち込んだからです。
ちなみに、このとき栄西が持ち込んだ茶は、中国で親しまれていた碾茶(挽く前の抹茶)です。その製法と喫茶法を日本に伝え広め、それまで飲まれていた餅茶に変わり碾茶が飲まれるようになり、緑茶文化の基礎となりました。
しかし中国ではその後、権力の交代などにより碾茶は廃れていきます。
さらに、栄西は禅宗の飲茶の礼法「茶礼(されい)」を持ち帰りました。修行の合間や就寝時、1日に数回1つのやかんに用意された茶を分け合って飲むというものです。心を1つにして修行に当たるという意味があります。さらに大きな行事では、参加者全員が一堂に会し茶を飲む「総茶礼」が行われました。この茶礼が、後に茶の湯へとつながることとなります。
本格的な茶の栽培のきっかけを作る
栄西は、本格的な茶園が作られるきっかけを作りました。
栄西は、宗からの帰国時に茶の種と茶の栽培に関する知識を持ち帰り、寺院での茶栽培を広めます。なぜなら、茶の覚醒作用が禅宗の厳しい修行に取組む際、非常に有効だったからです。
そうやって広められた茶の種と知識が、京都・栂尾の明恵上人に伝わり、本格的な茶園に発展するのです。この茶園の茶は、「栂尾の茶は本茶、それ以外は非茶」と呼ばれるほどの人気を博しました。
日本で臨済宗を広める
栄西は禅宗である臨済宗を広めると共に、茶の栽培や文化を広めました。そして、茶と禅は深く結びつき、禅の思想は茶の歴史を作った人物に多大な影響を与えたのです。
村田珠光と一休宗純(いっきゅうそうじゅん)、武野紹鴎と大林宗套(だいりんそうとう)、千利休と笑嶺宗訢(しょうれいそうきん)。これらの茶人と臨済宗の禅僧の関係は、茶の湯の歴史を語る上で欠かせないものとなりました。
日本初の茶の専門書「喫茶養生記」を書く
栄西は、茶を広めるために『喫茶養生記』を書いています。
上下二巻のこの書物は、日本で最初に書かれた茶の専門書で、宗で学んだ茶の医学的効能はもとより、栽培に関することまで詳しく記されています。
また栄西は、深酒の癖のある将軍・源実朝に、二日酔いによく効く薬として茶をすすめた際に『喫茶養生記』を献上したと『吾妻鏡』に記されています。
平安から鎌倉時代の喫茶文化
平安時代の茶は、宮廷の宗教行事や儀式で用いられていました。茶は、僧侶や貴族階級だけが飲むことができる特別な飲み物であり、薬でもありました。
その後徐々に、和歌や連歌を詠じる場で飲む「楽しむもの」へと変化していきます。
鎌倉時代に入ると、栄西が中国から持ち帰った「茶礼」という喫茶儀礼が、禅宗寺院で行われるようになり、一方では武士階級にも社交の道具として喫茶が浸透します。茶を飲むために集まる「茶寄合」が行われ始め、鎌倉後期には茶の産地を当てる遊び「闘茶」が流行します。しかし、闘茶と同時に賭け事が行なわれ、ついに幕府が闘茶を禁止するまでの盛り上がりを見せたのです。
日本に茶を持ち帰ったのは、栄西が初めてではありません。しかし、栄西が中国で学んだ禅と茶を日本に持ち帰り、広めたことでそれらが結びつき、現在の茶の湯に発展するきっかけを作った人物です。このことが、栄西が「茶祖」と呼ばれる由縁なのです。
日本茶の歴史|千利休
戦国時代のカリスマ茶人「千利休」。利休は生涯をかけて何を追い求め、どんな人生を送ったのでしょうか。カリスマの一生をそのエピソードを交え解説します。
千利休の一生
千利休(1522~1591)は、堺の豪商の家に生まれました。当時の堺は、貿易で栄え商人が自治を行う町でした。
利休は、17歳から茶を習い始め武野紹鴎に師事します。商人として家業に励み財をなす一方で、茶の道を追求し、笑嶺宗訢(しょうれいそうきん)に禅を学びます。
利休が50歳の頃、織田信長が堺の財力に目を付け直轄地とし、利休と他2名を茶頭(茶の湯の師匠)として起用します。信長没後は、豊臣秀吉に仕え、秀吉の関白就任を記念した「禁裏茶会」で親町天皇に茶を献上し「利休居士号」を下賜され、名実ともに天下一の茶人となりました。秀吉の弟・秀長の「内々の儀は宗易(利休)、公儀の事は宰相(秀長)存じ候」という言葉からは、利休が幕府の中心にいたことが分かります。
しかし、その後秀吉の逆鱗に触れ、切腹という形でその生涯を閉じることとなります。
茶室「待庵(国宝)」にみる侘び茶の完成
利休が完成させた侘び茶の精神は、利休の設計した茶室「待庵(国宝)」に凝縮されています。「待庵」は、利休の考える美学を基に、不要なものを極限までそぎ落とし作られた二畳の茶室です。
なかでも利休が大切にした茶の湯の精神は「にじり口」の作りに表されています。「にじり口」は間口が狭く低位置にある入り口です。
たとえ身分の高い武士であっても、刀を外し頭を低くして、這ような体勢にならないと中に入ることができません。茶の湯に集う人は皆、身分の差なく平等の存在だということを「にじり口」は示しているのです。
武士社会の中の「茶の湯」
信長は、家臣達へ茶の湯を奨励しました。許可を与えた家臣にのみ茶会の開催を許し、武功の褒美に高価な茶碗を与えます。名物茶器を持ち、茶の道に精通することが武士のステータスとなるよう仕向けたのです。
その結果、名物茶器の価値は一国一城にも、武将の命にも値するようになりました。ある武将との戦で有利に立った信長が、その武将が持つ名物の茶釜を渡せば命は助けると伝えたところ、その武将が「茶釜だけは渡せない」と、茶釜に爆薬を入れ自爆したと言う信じられない話も残るほど、茶の湯が武士のステータスとなったのです。
エピソードから浮かび上がる「千利休」
利休には数々のエピソードが残され、そのエピソードが千利休の人となりや茶の湯に対する考え方を伝えてくれます。
「侘び茶」の変えられるもの・変えられないもの
利休に茶を点てさせた信長が、利休の茶の点て方が簡略化されていることに気づきます。「何故か?」と問うた信長に、「古法の通りにやっていたのでは、現代の人は根気も無いので嫌がるでしょう。そう思い簡単な作法にしました。」と答えたといいます。
時代に合わせて、侘び茶の作法を変化させることを厭わない柔軟な姿勢と、侘び茶の求める美学やもてなしの心といった精神性には一切の妥協を許さない姿勢を考え合わせると、利休が「侘び茶」において重要視したものが見えてくるのではないでしょうか。
朝顔の茶会
ある初夏の朝、利休は秀吉に「朝顔が美しいので」と、茶会に招きます。秀吉が満開の朝顔を楽しみにやって来ると、庭の朝顔が全て無くなっていました。残念に思いながら秀吉が茶室に入ると、床の間の光が差し込む場所に一輪だけ活けられた朝顔が。一輪だからこそ際立つ朝顔の美しさと、それを見事に演出した利休のセンスに秀吉は感服したといいます。
利休七則(200)
弟子に「茶の湯とは何か」と問われた利休は、のちに「利休七則」と呼ばれる答えを返します。
「茶は服のよきように、炭は湯の沸くように、夏は涼しく冬は暖かに、花は野にあるように、刻限は早めに、降らずとも雨の用意、相客に心せよ」
これに弟子が、それくらいは分かりますと返すと、利休は「もしそれが十分にできるなら、私はあなたの弟子になりましょう」と答えました。当たり前のことこそ難しく、おろそかにしてはならないとする利休の真摯な姿勢が伝わります。
カリスマ茶人「利休」の誕生
秀吉の関白就任を記念した茶会において親町天皇から「利休」の号を下賜された利休ですが、その後「北野大茶湯」を取り仕切り、名実ともに「天下一の茶人」の立場を不動のものとしました。
「北野大茶湯」は、秀吉の権力を示すために開かれた茶会で、農民から身分の高い者まで、身分を問わず茶碗1つで参加でき、参加者には秀吉・利休・その他2人の茶頭が茶をもてなし、1日で1000人近くが参加したといわれています。
切腹
秀吉に命じられ切腹した利休ですが、最期の言動にまで徹底した茶の湯の精神が表れています。
秀吉の「切腹せよ」との言葉を伝えに来た使者に、利休は「茶室にて茶の支度ができております」と伝え、茶を点て、もてなした後に切腹したと伝えられています。
さらに、切腹前にある人へ宛てた手紙には、「心だに岩木とならばそのままに みやこのうちも住みよかるべし(心さえ岩や木のように感情を殺していれば、都も住みよかったのに)」と書かれていました。「私は心(茶の湯の精神)を偽ることができません、それならば死を選びます。」という心情を、歌にして送ったのです。
日本茶の歴史|村田珠光
絢爛豪華で単に楽しむためのものだった茶会を、精神性を追求する「茶の道」へと変化させる基礎を見いだした、村田珠光をご紹介します。
村田珠光とは
村田珠光(1422~1502)は大和国(現・奈良県)に生まれました。珠光は、成長し浄土宗・称名寺に入寺しますが、出家することを嫌い京で能阿弥に師事します。そこで茶の湯・和漢連句・能・立花・唐物目利きを習い、能阿弥の推薦で足利義政の茶道師範となったといわれています。また、臨済宗の僧・一休宗純とも交流があり、彼から禅を学びました。
そして、これらの経験を基に「侘び茶」の基礎となる精神を見い出しました。
珠光の時代は、舶来品を愛でながら茶を楽しむ豪華な茶会(殿中の茶)が中心でしたが、珠光が見いだした「新しい茶の湯」の精神が、珠光の死後も弟子に受け継がれ、やがて今日の茶道へとつながっていくのです。
村田珠光が目指した「侘び茶」
珠光が残した言葉から、珠光の目指した「侘び茶」をみてみましょう。
「物」に関する言葉
珠光は「和漢のさかいをまぎらかすこと肝要」という言葉を残しています。
唐物だけを良しとした風潮に対し、日本の焼物のもつ素朴な美しさにも関心を寄せることが肝心だと主張し、新たな美意識を茶の湯の世界にもたらしました。そんな珠光が残した茶道具は「珠光名物」と呼ばれ、そのうちの1つの茶碗を千利休が使用していたとの逸話も残されています。
また「月も雲間のなきは嫌にて候(光輝く満月よりも、雲の間に見え隠れする月の方が趣があり良い)」という言葉からは「不足の美」を良しとする、「新しい茶の湯」の姿が見えます。この美意識は茶室を作る際にも影響し、珠光は茶室を四畳半という狭い空間に区切り、装飾を排することで現れる美を目指したのです。
「心・精神」に関する言葉
禅の影響を受けた珠光は「物を極限まで排することで現れる美」を追究しました。そして、物の不足を「心の豊かさ」で補うことを目指したのです。
茶の湯の「心・精神」を重視した珠光は、茶の湯の道にとって最も大きな妨げとなるのは「慢心と自分への執着」であるとし、どんなに上達しても人には素直に教えを請い、初心者にはその修行を助けることを説いています。
さらに、珠光が弟子に宛てた一節に「心の師とはなれ、心を師とせざれ。」があります。「移ろいやすい心に振り回されず、自分が心をコントロールする立場になりなさい」という意味です。
珠光は茶の湯を、心をコントロールし自分自身と対峙する「精神修行の場」とすることを目指したのです。
村田珠光に影響を与えた人物
いかにして珠光の考え方が作られたかのか。珠光に強く影響を残した、2人の人物をご紹介します。
能阿弥
能阿弥との出会いなくして、珠光の新しい発想は生まれませんでした。
能阿弥から学んだことは、茶の湯・和漢連句・能・立花など、当時の一流の文化です。それらを学ぶことにより審美眼を磨き、後述の禅の思想が融合することで、珠光の目指す茶の湯が作られました。なかでも和漢連句には、強く影響を受けたと思われます。和歌と漢詩の受け答えを繰り返す和漢連句に親しむことにより、「和漢のさかいをまぎらかす」との考えが生まれたことは、容易に想像できます。和と漢どちらも知った上で融合し、さらに新しいものへ発展させるという考えがここから生まれました。
禅僧・一休宗純
珠光は、「一休さん」として有名な禅僧・一休宗純からも大きな影響を受けています。
禅僧・一休宗純は自由を追い求め、反骨精神にあふれた禅僧でした。珠光は、「無駄を排する禅の教え」や「何ごとにもこだわらず、本質を追い求める心」を一休から学んだのです。
侘び茶は珠光により完成された訳ではありません。しかし、珠光は「佗び茶が目指し、進む道を示す」という重要な役割を果たしたのです。その後、珠光の考えは富裕層の支持を得て広まり、弟子達が研鑚を重ねたことで茶の湯文化の完成につながっていくこととなります。
日本茶の歴史|明恵上人
明恵上人は、僧侶として素晴らしい功績を残したその一方で、栂尾の茶栽培の基礎を築いた人でもあります。そんな明恵上人についてご紹介します。
僧侶・明恵上人
明恵上人は、幼い頃に両親を亡くし仏門に入り、華厳宗・真言密宗などを次々に学び将来を嘱望された僧侶でした。34歳の時には、後鳥羽上皇より京都栂尾の地を賜り、高山寺を開きます。明恵上人は、宗派にこだわるよりも仏陀の説いた戒律を守ることが最も大切と考え、身をもって実践しました。また、戦で身寄りを失った女性など、弱い立場の人々の救済を積極的に行います。その姿に感銘を受けた多くの人々に支持されながら修行に励み、59歳で亡くなりました。
京都の茶の始祖・明恵上人
栄西との出会い
宗派にこだわらず大乗仏教を学んでいた明恵上人は、禅を学ぶために栄西の元を訪れます。その時に禅だけで無く中国で学んだ「茶」について、栄西が明恵上人に伝授しました。禅の修行における茶の活用法・茶の効用・栽培方法・栽培に適した土地について等、栄西は自分が学んだ茶にまつわる知識を明恵上人に伝え、喫茶を推奨しました。ちなみにこの時代、茶は点茶法で飲まれていました。今の抹茶と同じように石臼で挽いて粉にしたお茶を茶筅で点てる飲み方です。
栄西から届いた茶の種
京都栂尾に帰った明恵上人に、栄西から漢柿蔕茶壺(あやのかきへたちゃつぼ)に入った茶の種が届きます。明恵上人はさっそく茶の栽培を始めると同時に、修行に励む僧侶にも茶の効用を説き、積極的に喫茶を広めていきます。
一粒の種から茶園へ
明恵上人が始めた栂尾の茶栽培は、その後約2世紀にわたり栄えることとなります。栂尾は茶の栽培に適した土地であったため、良質の茶が生産できたのです。当時は、その質の高さから栂尾産の茶を「本茶」その他の産地の茶を「非茶」と呼ばれるほどの人気でした。高山寺では、明恵上人の功績に感謝を捧げ新茶を献上する「献茶式」が毎年11月に行われています。
栂尾から宇治へ
栄西から茶の栽培に適した土地・気候について教えを受けた明恵上人は、茶の栽培を宇治へと広めました。「朝ぼらけ 宇治の川霧たえだえにあらわれ渡る 瀬々の網代木」と歌にあるように、川霧が立ち涼しい気候の宇治は、茶の栽培に適した土地だと判断したからです。その判断は正しく、後に宇治の茶は「天下一の茶」として全国にその名を轟かせるようになります。宇治の万福寺の山門には、「栂山の尾の上の茶の木分け植えて 跡ぞ生うべし駒の足影」と刻まれた石碑があります。栂尾で育てた茶の木を分けてもらった宇治の人々が、植え方が分からずにいたところ、明恵上人が馬に乗ったまま畑へ入りその足跡へ茶の木を植えるよう教えたとされる逸話が歌になり残っているのです。
茶十徳
明恵上人は湯釜の側面に「茶十徳」と呼ばれる、10個の茶の効用を刻みました。
諸天加護
強い根を張り一年中緑を保つ茶の生命力が、飲む人を守ります。
無病息災
茶を飲むことで病にかかることなく元気に過ごせます。
父母孝養
茶の深い味わいは心を整え、父母への感謝の心を育てます。
朋友和合
喫茶の習慣が親しい間柄の語らいを生み、関係性を深めます。
悪魔降伏
茶の成分が心身の疲労を解消し、心の迷いまでも取り払います。
正心修身
喫茶の礼節や作法には、精神修養の効果があります。
睡眠自除
茶が眠気を払います。
煩悩消滅
茶を飲むことで、煩悩が消滅します。
五臓調和
茶を飲むことで内臓の調子が整います。
臨終不乱
茶飲む人は心身共に整っているので死に臨んでも取り乱すことがありません。
このように、現在も知られている茶の覚醒効果や心を静める効果が、当時から認識されていたことが分かります。天皇初めたくさんの人々に慕われ尊敬された明恵上人の人柄に、茶の効用が影響を与えていたと明恵上人自身が認識していたとも考えられます。
日常生活の中に今まで以上に茶を取り入れ、茶の持つ10の恩恵にあやかってみませんか。
日本茶の歴史|売茶翁
千利休が侘び茶の祖と称されるのに対し、煎茶の祖と呼ばれるのが売茶翁(高遊外)です。煎茶を広めると同時に、当時の文化人に多大な影響を与えた売茶翁の生涯をご紹介します。
売茶翁とは
売茶翁の愛称で知られる高遊外(1675~1763)は蓮池藩(現佐賀県)の藩医の下に生まれ、黄檗宗龍津寺の化霖和尚の下で僧「月海元昭」となります。
50年近く修行に励んだ売茶翁でしたが、堕落した仏教界に失望し、僧をやめ京都に移り住みます。「茶亭・通仙亭」を開いた売茶翁は、風光明媚な場所に出向き茶を売る「移動販売」のようなこともしていました。
彼のもとには、その人柄に魅せられた文化人が集うようになり、この時から「売茶翁」と親しみを込め呼ばれるようになります。その後、僧侶としての名を捨て「高遊外」と名を変え売茶を続けますが、高齢となり体力の衰えを感じ売茶業を廃業し、89歳で生涯を閉じました。
エピソードから見る売茶翁
「高遊外」の由来
売茶翁は僧として「月海元昭」の名を持っていました。ある時、現在の暮らしぶりについて聞かれ「こういう具合に暮らしています。」と答えたところ、「こう優雅に暮らしています。」と聞き間違えられてしまいます。それを面白く思った売茶翁は「こう優雅に」の部分をもじり「高遊外(こうゆうがい)」と名乗ったといいます。
茶の良さを知ってもらうことが第一
通仙亭の看板には「茶銭は黄金百鎰より半文銭までくれしだい、ただにて飲むも勝手なり、ただよりほかはまけ申さず。」と書かれていました。
その意味は、「お茶代は、小判二千両(現在の一億円以上)から半文(現在の約30円)までいくらでもくれるだけ。 ただで飲んでも結構です。ただより安くはできません。」というものでした。
この文言からは、茶を飲んでもらい、茶の良さを知ってもらうことを第一に考えた売茶翁の姿勢が読み取れます。
新しいスタイルの「煎茶」を広める
売茶翁は、権力と結びつき形ばかりとなった当時の茶の湯を良しとせず、唐の陸羽(りくう)や廬同(ろどう)の「清風の茶」の世界を理想としました。
余計な作法や物を取り払い、シンプルに茶を楽しむ売茶翁の煎茶のスタイルは、庶民にまで広まっていきました。
最先端の文化人が憧れた売茶翁
江戸が日本の中心になった時代とはいえ、京都は依然、文化の最先端を行く大都市でした。
そんな地で売茶翁は、文化人達から絶大な人気を得ます。
売茶翁の教養の高さ、信念のもと自由に生活するスタイル、ウイットに富んだ語り口が人々を魅了したのです。その生き方や思想に影響された人の中には、伊藤若沖・与謝蕪村・渡辺崋山・松平定信・田能村竹田など、現在にも名を残す錚錚たる人物達がいたのです。
茶道具を自ら燃やす
売茶翁は高齢となり売茶業を廃業後、大切にしていた茶道具を自ら焼いてしまいます。それは、清貧の道を共に過ごした茶道具への愛情からでした。
「貧しく頼る人もいない私を支えてくれたのは、おまえ達(茶道具)だ。しかし、もうおまえ達を使うことができない。私が死んで、おまえ達が俗物の手に渡り辱められたら、私を恨むだろう。だから火葬にしてやろう。」と、売茶翁は、その気持ちを書き残していています。
茶道具への深い愛情が伝わるエピソードですが、茶道具が燃やされたことで「売茶翁の茶のスタイル」が後世に残らなかったことは大きな損失となりました。
売茶翁の目指した「茶」
売茶翁は浮世離れした仏教界から離れ、自活しながら精神的な高みを目指すことを選びました。その自活のための手段が「売茶」だったのです。そして、形骸化した茶の湯の世界に反発心を抱いた売茶翁が選んだ茶は「抹茶」ではなく「煎茶」でした。
売茶翁は、売茶の場を「サロン」にすることを目指したのではないでしょうか。事実、売茶翁の下には庶民から文化人まであらゆる人々が集い、茶を楽しむと同時にお互いを高め合う議論や交流が盛んに行われました。その中には、先にご紹介した名立たる画人・文人がいることを考えると、売茶翁の目論見は見事成功したといえるのではないでしょうか。
日常の雑事から離れ親しい人と談笑し茶を楽しむ時間の中に、売茶翁が追求めた人生の喜びや本質が見えてくるのかもしれません。
日本茶の歴史|大谷嘉兵衛
「茶聖・大谷嘉兵衛」。その功績は、茶業界だけにとどまらず多岐にわたります。時には私財さえ投げ出し、茶業界のため日本のために尽力した大谷嘉兵衛の一生を詳しくご紹介します。
世界を舞台に活躍した明治の大実業家「大谷嘉兵衛」の生涯
誕生~青年期
大谷 嘉兵衛は、1845年伊勢国(現・三重県松阪市)に生まれました。
19歳の嘉兵衛は、近隣出身の小倉籐兵衛が横浜で営む製茶貿易商「伊勢屋」に奉公します。働きぶりが認められ伊勢屋の養子となるも、養父と折合いが合わず離縁。
その後スミス・ベーカー商会の製茶買入方として働き、海外取引責任者となりました。
青年期~熟年期
23歳で幼名の藤吉から嘉兵衛へと改名。スミス・ベーカー商会に勤めながら、横浜に自身の会社「巴屋」を開業、業績を伸ばし茶業界への影響力を付けていきます。
自身の商売だけではなく、輸出急増に伴い茶の品質低下が問題となると、茶の品質向上に尽力。農商務省と協力し全国の茶業を統括する中央茶業本部を設立。政治の世界でも活躍し、茶業界や貿易業界の要職を歴任しました。
熟年期~晩年
49歳で「日本製茶株式会社」を設立。外人商館を通さず直接の輸出取引を始めます。
その後、政府の補助を受け、海外に出張所を開設。同年に横浜商業会議所会頭に就任。1899年に開催されたフィラデルフィア万国商業大会では、日本代表としてアメリカ合衆国大統領と面会し、お茶の関税撤廃を陳情、「太平洋海底ケーブル」の敷設を提案しました。
晩年まで政財界での活躍は続き、1933年90歳の天寿を全うします。
大谷嘉兵衛の功績
「茶聖」と呼ばれた男
先見の明を持つ19歳
嘉兵衛が13歳になる頃、日米修好通商条約が結ばれます。
日本の緑茶は外国人の好みに合い、輸出額は年々増加。生糸に次ぐ輸出商品の花形に成長します。茶の産地伊勢で育った嘉兵衛は、その将来性を肌で感じながら成長したのです。
19歳になった嘉兵衛は、隣村の出身者が横浜で営む製茶貿易商「伊勢屋」に奉公します。10代にして「茶の将来性」を確信し、茶業に携わることを決めた嘉兵衛にはの「先見の明」がありました。
大勝負に出た23歳
急激な需要増で品薄となった茶の買い付けを命ぜられ、嘉兵衛は大阪へ向かいます。見本を見るだけで大胆に買入れを続け約4トンもの茶を購入、使った金額は26万両(104億円/1両を4万円で計算)といわれています。
当時は全て現金による取引のため、拠点とした旅館の玄関に大きな金庫を据えての商売でした。珍しい光景を見ようと、山のような見物人が押し寄せたといいます。
この功績により多額の報酬を得た嘉兵衛は、スミス・ベーカー商会で働きながら、横浜に製茶売り込み業の「巴屋」を開業。嘉兵衛の商売人としての豪胆さがよく分かるエピソードです。
生涯止まらない活躍
嘉兵衛は、故郷伊勢の茶業・教育・架橋に多大な貢献をします。嘉兵衛の力によって伊勢茶の多くが海外に輸出され、地元経済を潤しました。
さらに、嘉兵衛の活躍は晩年になってもとどまることを知りません。
日本貿易協会の会頭、複数の銀行の頭取などを務め台湾鉄道・南満州鉄道・韓国銀行・常磐生命・川俣電気会社などの設立に関与。銀製黄綬褒章をはじめ、勲五等瑞宝章、勲三等瑞宝章、紺綬章、ベルギーよりレオポルド1世勲章を授かっています。
活躍の多様さや受章の多さからも、嘉兵衛の活躍ぶりを知ることが出来ます。
国際的な貢献
1899年にフィラデルフィアで開かれた万国商業大会に日本代表として参加した嘉兵衛は、前年から実施された日本茶に対する高い課税撤廃をアメリカ大統領に直訴。その結果、関税が廃止され茶の輸出は再び増加しました。
さらに、日本の茶業界が世界で戦うには、迅速に海外の状況を知る情報伝達手段が必要だとして、太平洋海底へのケーブル敷設を提案しインフラ整備に貢献したのです。
新しい取組みへの理解
嘉兵衛が茶業中央会議所会頭を務めた当時、一人の茶農家が周囲の理解を得られないまま「茶の品種改良」に取組み苦しんでいました。「茶の品種改良」の必要性を理解した嘉兵衛は、私財を投じて土地を購入し試験地として提供、品種改良事業を激励しました。
その茶農家が、現在も日本の茶生産量の70%以上を占める品種「やぶきた」の生みの親「杉山彦三郎」です。誰も理解を示さなかった「茶の品種改良」に、私財を投じて貢献した嘉兵衛は「やぶきた」のもう一人の生みの親ともいえます。
世界を舞台に活躍した明治の大実業家「茶聖・大谷嘉兵衛」を知ると、一杯のお茶から胸躍るロマンを感じられるのではないでしょうか。
日本茶の歴史|高林謙三
医師としての成功をつかんだにもかかわらず、生涯を製茶機械の発明に捧げた高林謙三。その波瀾万丈の生涯をご紹介します。
「製茶機械の父」高林謙三とは
生い立ちとその生涯
医学の世界からお茶の世界へ
16歳で医学を志し漢方医学・西洋外科医術を学び医師として成功していた謙三でしたが、明治に入り当時の貿易不均衡を案じ「茶の振興が急務」と、茶園経営を始めます。
当時全て手作業だった栽培・製茶作業の効率の悪さを改善するため機械化を思い立ち、私財を投じて製茶機械開発を始めます。
その後、「焙茶機械」・「生茶葉蒸器械」・「製茶摩擦器械」を発明、特許を取得しました。
逆境から亡くなるまで
謙三が最終的に目指したのは、全工程のオートメーション化でした。
54歳の謙三は医師を廃業し開発に専念します。やっとの事で完成にこぎ着けた「自立軒製茶機械」でしたが、不備が見つかり返品が相次ぎます。その結果、経済的困難に見舞われますが、屈することなくその後も開発を続け68歳の時「茶葉粗揉機」を完成させ、特許を取得しました。
その後、この機械の監査役として静岡で生活していましたが、1899年に脳出血で他界しました。
発明家・高林謙三の栄光と挫折
栄光・民間初の特許を取得
謙三が「生茶葉蒸器械」・「焙茶機械」・「製茶摩擦器械」を相次いで開発した同時期に日本の特許制度がスタートします。すぐに特許を申請し、それぞれの機械が「特許2・3・4号」を取得しました。
日本の特許第1号は宮内省技師の発明した軍艦塗料なので、謙三は民間発明家として日本初の特許取得者となりました。
その後も改良扇風機で特許第60号、茶葉揉捻機で特許第150号、茶葉粗揉機で特許第3301号を取得しています。謙三は6つの特許を取得した、優秀な発明家だったのです。
挫折・自立軒製茶機械の失敗
謙三が医師を廃業してまで開発に専念し1887年に完成させたのが、「自立軒製茶機械」です。当初は国の後押しで全国の茶業者に対し説明会が開かれ、注文も殺到しますが、その後苦情が相次ぎ、この機械で製造した商品までが不良品のため返品されてくる始末でした。
さらに、自宅を火事で失うという不幸まで続きます。農商務省の計らいで、研究用製茶工場を設けますが、家庭の経済は切迫し、肺の病気を患いながらの開発だったようです。それでも、謙三は機械開発に向けての努力を続けました。
栄光・茶葉揉乾機の発明
謙三は「製茶機械の父」と言われています。「茶葉粗揉機」は、製茶業の作業形態を大きく変えました。謙三の機械は、その原理や構造が現在も全国の製茶機械に使われている素晴らしい発明です。
さらに、茶が当時の主要な輸出品だったことを考えると「日本経済に貢献した」と言えるほどの大きな発明だったのです。
日本の製茶業界|機械化前と機械化後
機械化前の製茶業界
現在、茶園で摘採した生葉は、蒸器→粗揉機→揉捻機→中揉機→精揉機→乾燥機を経て製品化されます。
機械化以前はこの工程を全て手作業で行っていたので、職人1人当たり一日に3~5kgの製茶しかできませんでした。そのため、茶の輸出量増加に生産が追いつかない状況が続き、粗悪品が急増するという事態が発生します。製茶の機械化は、国を挙げての急務だったのです。
機械化後の製茶業界
謙三が目指した「機械化」は、手揉みと変わらない品質を実現し、なおかつ低コストで大量生産することでした。
残念ながら、謙三は全行程のオートメーション化を実現することはできませんでしたが、下揉み作業の省力化に大きく貢献しました。明治の初めには1万トン弱だった生産量が、明治末には3万トンを超えるようになります。
謙三は人の手作業を忠実にまねる機械を目指したので、茶の品質が低下することはありませんでした。その証拠に、日本一の茶師・大石音蔵と謙三の「茶葉揉乾機」を対決させた結果、能率・品質においても機械が圧勝。大石音蔵自ら、この機械を買い求めたというエピソードが残っています。
高林謙三の生涯を知ると「茶葉」の美しさが、よりいっそう心にしみますね。
日本茶の歴史|永谷宗円
お茶の歴史は永谷宗円(ながたにそうえん)抜きでは語れません。この記事では「青製煎茶製法」を生み出し、煎茶の普及に大きく貢献した永谷宗円について解説します。
永谷宗円とは
永谷宗円の基本情報
永谷宗円は、延宝9年(1681)に山城国(現・京都府)宇治田原郷湯屋谷村に生まれました。
永谷家の祖先は侍でしたが、文禄元年(1592)に湯屋谷の土地を開拓して茶園を開き、製茶業を営むようになりました。家業である製茶業に従事した永谷宗円は、農地改良などの陣頭指揮を執る「村のリーダー」でもあったようです。
安永7年(1778)に97歳で没した後も日本緑茶の祖として尊ばれ、生家に隣接する大神宮神社に「茶宗明神」として祀られています。
誰もが知っているあの企業との繋がり
永谷宗円と聞いて「聞いたことがある名前だな」と思った人もいるのでは?
永谷宗円は「お茶づけ海苔」で有名な、あの「永谷園」と深い繋がりがあります。
「永谷園」は、永谷家10代目の永谷嘉男により創業されました。創業当初の永谷園は、製茶業や茶量(煎茶道の道具)の切売りをしていましたが、1952年に発売した「お茶づけ海苔」で経営を不動のものとしました。
現在の永谷園の商品は、ふりかけ・即席味噌汁など、お茶とは無縁のものがほとんどですが「お茶づけ海苔」の原材料には、しっかりと抹茶が使われています。
永谷宗円の「お茶」への功績
永谷宗円のお茶への功績は2つあります。
現在の煎茶製法の基となる「青製煎茶製法」を生み出した
その当時、富裕層は挽き茶(現在の抹茶)、庶民は煎じ茶(現在の煎茶)を飲んでいましたが、煎じ茶は色が赤黒く味もあまり良くないものでした。「青製煎茶製法」により色の良い、おいしい煎じ茶が誕生し広く普及したため、庶民もおいしいお茶を楽しめるようになりました。
宇治茶を江戸で販売することに成功した。
日本最大の消費地となった江戸に目を付け、高い年貢や他のお茶産地に押され斜陽になり始めた宇治田原のお茶(宇治茶)の販路拡大に成功したのです。
永谷宗円と関係の深いもう一つの有名企業「山本山」
当初江戸では、新製法のお茶を評価する茶商はいませんでした。しかし、元文3年(1738)に和紙やお茶・茶器類を扱っていた山本山を訪れた際、4代目の山本嘉兵衛が永谷宗円のお茶を気に入り、即買い取ったと言われています。
その後、この煎茶に「天下一」と名付けて売り出すと、大人気となり江戸から全国へ広がりました。永谷宗円のお茶によって莫大な利益を得た山本山は、その後毎年謝礼として、小判25両を明治8年(1875)まで永谷家に渡したというエピソードも残っています。
青製煎茶製法とは
「青製煎茶製法」以前のお茶は、茶葉を加熱した後、乾燥し仕上げたもので色が黒っぽく、味もあまりおいしくなかったようです。お茶の色から「黒製」と呼ばれていました。
宗円の考え出した「青製煎茶製法」は、蒸した茶葉を乾燥させる前に「揉む」作業が加えられ、色が美しく、味わい深いものになりました。こちらは、お茶の色が青い(緑色)ことから「青製」と呼ばれました。
「青製煎茶製法」を生み出した永谷宗円がいなければ、現在の煎茶の美しい色や味わいを楽しむことはできなかったのです。
侘び茶を完成させた文化人・武野紹鴎について
村田珠光から始まる「侘び茶」完成への流れを、千利休へ引き継いだ人物「武野紹鴎」についてご紹介します。
武野紹鴎とは
武野紹鴎(たけのじょうおう・1502 -1555)は大和国(現・奈良県)で生まれました。20代になると京都で暮らし始めます。27歳で、当時最高の文化人であった三条西実隆に古典や和歌についての教えを受けるようになりました。
また、村田珠光の流れを継ぐ茶人から茶の湯を学びます。31歳の時に、応仁の乱で荒れた京都から堺へ移り住み、出家し「紹鷗」の法名を受け、茶の湯に専念し「佗び茶」の道を追求したとされています。
村田珠光が目指した「侘び茶」
紹鴎は村田珠光の孫弟子にあたります。師匠・珠光が見いだした「侘び茶」を、紹鴎がさらに洗練させ、紹鴎の弟子である千利休が完成させたのです。
珠光が残した言葉を知ることで紹鴎が目指した「侘び茶」の源を知ることができます。
「物」に関する言葉
珠光は「和漢のさかいをまぎらかすこと肝要」という言葉を残しています。唐物だけを良しとした風潮に対し、日本の焼物のもつ素朴な美しさにも関心を寄せることが肝心だと主張し、新たな美意識を茶の湯の世界にもたらしました。
そんな珠光が残した茶道具は「珠光名物」と呼ばれ、そのうちの1つの茶碗を千利休が使用していたとの逸話も残されています。
また「月も雲間のなきは嫌にて候(光輝く満月よりも、雲の間に見え隠れする月の方が趣があり良い)」という言葉からは「不足の美」を良しとする、「新しい茶の湯」の姿が見えます。この美意識は茶室を作る際にも影響し、珠光は茶室を四畳半という狭い空間に区切り、装飾を排することで現れる美を目指したのです。
「心・精神」に関する言葉
禅の影響を受けた珠光は「物を極限まで排することで現れる美」を追究しました。そして、物の不足を「心の豊かさ」で補うことを目指したのです。
茶の湯の「心・精神」を重視した珠光は、茶の湯の道にとって最も大きな妨げとなるのは「慢心と自分への執着」であるとし、どんなに上達しても人には素直に教えを請い、初心者にはその修行を助けることを説いています。
さらに、珠光が弟子に宛てた一節に「心の師とはなれ、心を師とせざれ。」があります。「移ろいやすい心に振り回されず、自分が心をコントロールする立場になりなさい」という意味です。珠光は茶の湯を、心をコントロールし自分自身と対峙する「精神修行の場」とすることを目指したのです。
武野紹鴎の「侘び茶」
紹鴎は、村田珠光からの流れを受け継ぎ、「侘び茶」にさらなる精神性を取り入れた人物です。そんな紹鴎に影響を与えた、2人の人物をご紹介します。
文化人・三条西実隆(さんじょうにしさねたか)
当時最高の文化人であった三条西実隆に連歌・和歌を学んだことは、紹鴎の「侘び茶」に大きな影響を与えました。
紹鴎は「連歌は枯れかじけて寒かれと云ふ。茶の湯の果てもその如く成りたき」という言葉を残しています。連歌における「冷え枯れる」という概念を、茶の湯に向き合う心としたいという意味です。「冷え枯れる」とは、「樹木が枯れる初冬の冷え冷えとした空気。または、そこで感じる清々しく凛とした心持ち。」を表す言葉です。紹鴎は、そのような心で茶の湯に向き合うことを目指したのです。
紹鴎が目指した境地を表すもう1つの歌が、和歌にあります。藤原定家の「みわたせば 花ももみぢも なかりけり 浦のとまやの 秋の夕暮」です。「秋が深まり、花や紅葉のような楽しく美しい情景は、この海辺の苫屋にはもうないのだなぁ」と歌っているのですが、この情景に美を感じる概念が「足らざることに満足し、慎み深く行動する」侘び茶の概念へとつながっていくのです。
禅僧・大林宗套(だいりんそうとう)
紹鴎は南宗寺の禅僧・大林宗套より禅を学ぶことにより、茶の湯に向き合う精神と禅の精神をこれまで以上に融合していきます。そしてその流れは、千利休により「茶禅一味」という概念を完成させることにつながるのです。「茶禅一味」とは「茶と禅は、行うことの見た目は違うが、その本質においては別物ではなく、どちらも人間形成の道である。」という意味です。
村田珠光により、茶の湯は戦国時代の無常感のなかで禅と結びつきます。さらに武野紹鴎により、和歌や連歌のエッセンスと共に洗練され、禅の「本来無一物(ほんらいむいちもつ・全ては空であるから何物にもとらわれてはいけない)」の精神に向かい、千利休による「侘び茶」の完成に至るのです。
日本茶の歴史|中條景昭
幕末の大変革期、静岡県の牧之原台地は地元農民でさえ見放す荒れ果てた土地でした。その土地を200名余りの武士からなる「農業素人集団」を率いて、日本有数のお茶の産地に生まれ変わらせた人物「中條景昭」をご紹介します。
中條景昭とは
侍時代
中條景昭は1827年、江戸六番町に旗本の庶子として生まれました。13代将軍・家定に仕え、家中の武士たちに武術を指南する剣客でした。1867年に15代将軍・慶喜が、大政を奉還して駿府(現・静岡県)に移住する際には、精鋭隊の一員として警護に当たります。その後、精鋭隊は使命を終えて解散。江戸から明治となり、幕府を失った景昭ら武士は、第二の人生の選択を迫られることとなります。
開墾開始
景昭は、「金谷原(現・牧之原台地)開墾方」を率いて牧之原台地の開墾に挑むことを決断します。この頃の牧之原台地は、地元農民でさえ見放す荒野であることを承知の上で、「我輩にこの地を与えてくださるならば、死を誓って開墾を事とし、力食一生を終ろう」 と勝海舟に誓ったといいます。
その後、42歳の中條は「金谷原開墾方」を率いて開墾を開始しますが、初めてわずかな茶芽を収穫できたのは、開墾開始から4年後のことでした。
晩年
時代が進み官有地であった土地が個人で売買できるようになると、開墾方のメンバーも農民として残るものから土地を離れるものまで、次第にバラバラになっていきました。
そんな中、神奈川県令(知事)への要請がありましたが、開墾を続けるために断ります。その後は、生産した茶を集めて共同製茶し、輸出品とするため「牧之原製茶会社」設立に取組みますが、事業資金の請願が却下され実現することはありませんでした。
そんな苦難にも負けず、一途に牧之原台地の開墾に生涯を捧げ1896年69歳で亡くなりました。
中條景昭の功績
抜群のリーダーシップ
時代のリーダー「幕末の三舟」と呼ばれた勝海舟、山岡鉄舟らと親交のあった景昭は、彼自身も優れたリーダーでありました。
当時42歳の景昭が率いた「金谷原開墾方」は約200人、その家族を加えるとかなりの大所帯でした。しかも開墾方のメンバーは、身分の高い武士から能楽師まで、さまざまな経歴を持つ「農業の素人集団」だったのです。
そんなバラエティー豊かな「農業の素人集団」をまとめ上げ、牧之原台地開墾という偉業を成し遂げた景昭のリーダーシップは称賛に値するものでした。
武士の矜持と共に第二の人生を牧之原台地に捧げる
将軍の身辺警護をする「エリート官僚」から、開墾・茶栽培という未知の分野への転身にどれだけの葛藤があったかは、現代の私たちにも容易に想像できます。
優れたリーダーでもあった景昭には神奈川県令(知事)への要請もありました。
しかし、「いったん山へ上ったからは、どんなことがあっても山は下りぬ。お茶の木のこやしになるのだ」と断ったことからは、景昭の一途さがうかがわれます。
また、生涯髷を切らず武士の矜持と共に「牧之原台地開墾」に打ち込んだ景昭の葬儀では、その偉業に敬意を表し勝海舟が葬儀委員長を務めました。さらに、景昭の死を悲しむ開墾方のメンバーが21日間も墓参を続けたという逸話からは、景昭の人柄が偲ばれます。
現在の牧之原台地
新茶の季節には一面が鮮やかな緑色に染まる牧之原台地ですが、開墾当初は東京ドーム約42個分・200ヘクタールほどの、水の供給もままならない荒野でした。
その土地を「金谷原開墾方」は、東京ドーム約1,063個分・5,000ヘクタールに開墾、大茶園にしたのです。
景昭亡き後も土地や茶葉の改良が繰り返され、「深蒸し茶」製法の原型が考案されるなど人々の努力が続き、現在では深い緑色の水色とコクのある味わいの「牧之原茶」が、静岡を代表するブランドの1つとなりました。
江戸から明治への激動の時代に、第二の人生を賭けて未知の分野へ挑んだ中條景昭の生き様からは、現代の我々も学ぶべきところが多いのではないでしょうか。
日本茶の歴史|山本嘉兵衛
「山本山」の山本嘉兵衛 とその功績
山本嘉兵衛は、日本の茶の歴史を語る上で欠かせない人物です。といっても「山本嘉兵衛」は一人の人物ではありません。山本家の当主が代々「嘉兵衛」を名乗ってきたからです。今回の記事では、山本家の歴代当主の中から、初代・山本嘉兵衛と、4・5・6代目山本嘉兵衛の功績の数々をご紹介します。
初代・山本嘉兵衛~山本山の始まり
初代・山本嘉兵衛は、山城国(現・京都府)宇治山本村から江戸に上り、1690年に日本橋で和紙や茶・茶器類等を扱う「鍵屋」を創業します。これが現在も続く「山本山」の始まりです。
「鍵屋」の屋号はその後「紙屋嘉兵衛」「都竜軒嘉兵衛」「山本屋嘉兵衛」「山本屋嘉兵衛商店」と変化していきます。その後1941年に、販売していた人気の茶の名前から店名を「山本山」としました。
4代目・山本嘉兵衛~山本山の躍進と「永谷園」
4代目・山本嘉兵衛の時代に、「山本山」躍進のチャンスが訪れます。「青製煎茶製法」を開発した「永谷宗円」が、煎茶を売り込むため山本山を訪れたのです。
他の茶商では相手にされなかったこの煎茶を飲んだ4代目・山本嘉兵衛は、茶の色の美しさ、味わいの深さに驚き即座に買い取ることを決めます。この煎茶はその後「天下一」と名付けられ、江戸はもとより全国的な大人気商品となるのです。
これにより山本山は莫大な利益を得たことに感謝し、永谷家に対し小判25両を約130年間送り続けたというエピソードが残っています。そして、この永谷宗円から数え10代目の永谷嘉男により「永谷園」は創業されるのです。
5代目・山本嘉兵衛~「狭山茶」の発掘
5代目・山本嘉兵衛は、現在の埼玉県で栽培されていた「狭山茶」を発掘しました。
もともと茶の産地であった狭山では、当時全国的に人気を博した煎茶製法にならい茶を作り始めます。5代目・山本嘉兵衛が、その味の良さに気づき製法へのアドバイスを繰り返し、できあがった物が「狭山茶」です。
1819年に売買契約を交わし「霜の花」「雪の梅」と名付け売り出すと人気を博しました。狭山茶は「静岡茶」「宇治茶」と並んで「日本三大茶」と称される存在になり「味は静岡、香りは宇治よ、味は狭山でとどめさす」という茶摘み歌が残っているほどです。
6代目・山本嘉兵衛~「玉露」を創りだす
6代目・山本嘉兵衛は玉露の製法を編み出したといわれています。
当時はどの茶商も普及しきった煎茶の差別化に、しのぎを削っていました。そんな中、6代目・山本嘉兵衛が京都(宇治)を訪れた際、製茶中に茶葉を露のように丸くあぶることを思いついたことが「玉露」誕生のきっかけといわれています。
「玉露」は、そのまろやかで上品な風味が旗本や大名から評判を呼び人気となりました。
ちなみに名前の由来は、玉露独特の旨みが玉の露のようだからという別の説もあります。さらに、明治時代に現在の形(棒状)へと玉露を完成させたのは、辻利右衛門(「辻利」創業者)といわれています。
日本茶の歴史|杉山彦三郎
生涯を通じ茶の木の品種改良を追求した情熱の人。地元静岡では、没した後も「彦三郎翁」と呼ばれ敬われる「やぶきた」生みの親、杉山彦三郎について解説します。
杉山彦三郎とは
杉山彦三郎(すぎやまひこさぶろう)は、安政4年(1857)安倍郡有度村(現・静岡市)に生まれました。父の営む造り酒屋と漢方医の後継は弟に譲り、彦三郎は農業の道に進みます。
ちょうど彦三郎が生まれた頃、日本はアメリカと修好通商条約を締結し、お茶は生糸に次ぐ輸出品となり、花形産業へと発展します。そんな時代に杉山彦三郎が始めたお茶栽培は、師を持たず体験から学びながらのものでした。
急速な発展のため、玉石混交の茶業界で粗悪な商品を取り締まる茶業組合の幹事を勤めますが「自分自身が優良なお茶を産出できないことを恥じている」という述懐から誠実な人柄がうかがえます。
苦労を重ねて品種改良に成功し、「やぶきた」を生み出したものの、その隆盛を見ることなく昭和16年(1941)に83歳で亡くなりました。
現在では、静岡市内に胸像碑が建てられ、「やぶきた」の原木は静岡県の天然記念物に指定されるなど、その功績が認められています。また茶業功労者への表彰を行う「杉山彦三郎賞」も存在します。
日本のお茶を変えた杉山彦三郎の功績
「品種改良」の始まり
自ら山野を切り開き茶園を造成し、ほぼ独学でお茶栽培を始めた彦三郎は勧農局(農業振興を掌じる内務省の内局)の役人などからお茶作りを学び、遠縁の茶師・山田文助から製茶を学びました。
「良いお茶を作るためには、まず良い茶葉が必要」とする茶師・山田文助に付いてお茶を観察するうちに、「お茶の成長には早いものと遅いものがある」「品種により茶葉の良し悪しに差がある」ということに気づきます。
これらは今でこそ当然のことですが、当時は一つの茶園にさまざまな品種が混在し、収穫する茶葉の品質にバラツキがあることが当たり前でした。そんな状況の中で、この気づきは大きな発見であり品種改良への第一歩だったのです。
「やぶきた」の開発
良質のお茶を安定して生み出すためには、優良な茶の木が必要だと確信した彦三郎は、品種改良に力を入れます。しかしそれは学問的知識が無いままに、ひたすら試行錯誤を繰り返す作業でした。
今でこそ、彦三郎のしたことは「品種改良」と認識されますが、当時は人々に理解してもらえず、変わり者扱いされる始末。
それでも、35歳頃から次々と新品種を開発していきます。そんな中、良い茶の木を選び出し藪の北側に植えたものを「やぶきた」南に植えたものを「やぶみなみ」と命名し栽培を始めます。すると「やぶきた」は病気に強く育てやすい上、バランスの良い味の茶葉を付けることが判明。
「やぶきた」は発表後に品質を認められはしたものの、戦争を挟んだため彦三郎の死後14年を経てようやく日本中に広まったのです。
地元の茶業振興に尽力する
杉山彦三郎の功績は、品種改良だけにとどまりません。
50代になり、ようやく「茶業中央会議所会頭の大谷嘉兵衛」という支援者を得て、試験地での品種改良事業に取り組みましたが、大谷氏が会頭の座を退くと茶業中央会議所から引き続きの援助は得られず、試験地を返上という窮地に立たされます。
しかし、77歳の彦三郎はこの窮地に屈しませんでした。
自ら購入した茶園で研究を続け、近隣の青年達に協力を要請し、自ら培った品種改良の知識や経験を後生に引き継ぐことに尽力します。また、近隣の農家にも惜しみなく知識を伝え、新しく機械が開発されればそれを導入していち早く製茶業の機械化を図り、地元の川の改修・茶園周辺の整備など郷土の茶業振興のために尽くしたのです。没してなお「彦三郎翁」と地元で慕われ敬われる理由はここにあります。
杉山彦三郎の情熱を物語る3つのエピソード
「イタチ」と呼ばれた男
良い茶の木を見つけるために、彦三郎は昼夜を問わず茶畑をうろつき、時には人の畑にまで入ったといわれています。地面を這いつくばって茶畑を動き回る姿から「イタチ」と嘲笑されても、理想の茶の木を探すことを止めませんでした。
「この木こそは!」と思う茶の木を見つけると、その茶葉を生のまま噛み吟味していたため、前歯が欠けていたという逸話も残っています。
持てる情熱を全て傾けて、理想の品種を追い求めたのです。
お茶のためならどこへでも
彦三朗の「良いお茶を見つけたい」という情熱は、とどまるところを知らず彼を動かしました。
交通手段が発達していない時代に日本国内はもちろん、韓国にまで茶の木を探しに出向いたのです。良い茶の木に出会ったときに持ち帰るため、旅には保水用の水苔を必ず持参し、時には野菜の切り口に枝を刺して持ち帰ったといわれます。
20年の苦労が全て薪にされても
支援者を失い、試験地を返上せざるを得なくなったとき、彦三郎は77歳。その試験地で20数年にわたり心血を注ぎ育てた茶の木は、全て抜かれ薪にされてしまいます。
77歳という高齢で、このような試練に遭ったにもかかわらず、今度は私財をなげうち研究を続け、後進を育てた彦三郎の情熱は執念ともいえます。
お茶栽培の素人であった杉山彦三郎が、生涯をかけて達成させた苦労や情熱を思うと、いつものお茶が味わい深く特別なものに感じられるのではないでしょうか。