日本茶の歴史|栄西
「茶祖」と呼ばれる栄西。しかし、日本に初めて茶を持ち込んだ人物は、栄西ではありません。では、なぜ栄西が「茶祖」と呼ばれるのでしょうか?その理由を「禅」と「茶」の関係を通して解説します。
栄西とは
栄西(1141~1215)は、10代から天台宗の教えを学び始め、より深く禅宗を学ぶため2度に渡り宗を訪れました。帰国した栄西は、臨済宗の日本における開祖となります。
同時に宗で茶の素晴らしさに触れ、その種を日本に持ち帰った栄西は、臨済宗の布教と同時に茶の栽培方法や茶にまつわる文化を広めました。天台宗からの迫害を受けつつも、臨済宗の布教に努め『興禅護国論』『一代経論釈』などの書物を残しています。
「茶祖・栄西」の功績
この章では禅僧である栄西が、どのように茶と関わった人物なのかご紹介します。
茶の文化を日本に持ち帰り広める
茶は、栄西が生まれる以前から日本に持ち込まれていました。ではなぜ栄西が、日本の「茶祖」と呼ばれるのでしょうか。それは、栄西が、茶の文化を初めて日本に持ち込んだからです。
ちなみに、このとき栄西が持ち込んだ茶は、中国で親しまれていた碾茶(挽く前の抹茶)です。その製法と喫茶法を日本に伝え広め、それまで飲まれていた餅茶に変わり碾茶が飲まれるようになり、緑茶文化の基礎となりました。
しかし中国ではその後、権力の交代などにより碾茶は廃れていきます。
さらに、栄西は禅宗の飲茶の礼法「茶礼(されい)」を持ち帰りました。修行の合間や就寝時、1日に数回1つのやかんに用意された茶を分け合って飲むというものです。心を1つにして修行に当たるという意味があります。さらに大きな行事では、参加者全員が一堂に会し茶を飲む「総茶礼」が行われました。この茶礼が、後に茶の湯へとつながることとなります。
本格的な茶の栽培のきっかけを作る
栄西は、本格的な茶園が作られるきっかけを作りました。
栄西は、宗からの帰国時に茶の種と茶の栽培に関する知識を持ち帰り、寺院での茶栽培を広めます。なぜなら、茶の覚醒作用が禅宗の厳しい修行に取組む際、非常に有効だったからです。
そうやって広められた茶の種と知識が、京都・栂尾の明恵上人に伝わり、本格的な茶園に発展するのです。この茶園の茶は、「栂尾の茶は本茶、それ以外は非茶」と呼ばれるほどの人気を博しました。
日本で臨済宗を広める
栄西は禅宗である臨済宗を広めると共に、茶の栽培や文化を広めました。そして、茶と禅は深く結びつき、禅の思想は茶の歴史を作った人物に多大な影響を与えたのです。
村田珠光と一休宗純(いっきゅうそうじゅん)、武野紹鴎と大林宗套(だいりんそうとう)、千利休と笑嶺宗訢(しょうれいそうきん)。これらの茶人と臨済宗の禅僧の関係は、茶の湯の歴史を語る上で欠かせないものとなりました。
日本初の茶の専門書「喫茶養生記」を書く
栄西は、茶を広めるために『喫茶養生記』を書いています。
上下二巻のこの書物は、日本で最初に書かれた茶の専門書で、宗で学んだ茶の医学的効能はもとより、栽培に関することまで詳しく記されています。
また栄西は、深酒の癖のある将軍・源実朝に、二日酔いによく効く薬として茶をすすめた際に『喫茶養生記』を献上したと『吾妻鏡』に記されています。
平安から鎌倉時代の喫茶文化
平安時代の茶は、宮廷の宗教行事や儀式で用いられていました。茶は、僧侶や貴族階級だけが飲むことができる特別な飲み物であり、薬でもありました。
その後徐々に、和歌や連歌を詠じる場で飲む「楽しむもの」へと変化していきます。
鎌倉時代に入ると、栄西が中国から持ち帰った「茶礼」という喫茶儀礼が、禅宗寺院で行われるようになり、一方では武士階級にも社交の道具として喫茶が浸透します。茶を飲むために集まる「茶寄合」が行われ始め、鎌倉後期には茶の産地を当てる遊び「闘茶」が流行します。しかし、闘茶と同時に賭け事が行なわれ、ついに幕府が闘茶を禁止するまでの盛り上がりを見せたのです。
日本に茶を持ち帰ったのは、栄西が初めてではありません。しかし、栄西が中国で学んだ禅と茶を日本に持ち帰り、広めたことでそれらが結びつき、現在の茶の湯に発展するきっかけを作った人物です。このことが、栄西が「茶祖」と呼ばれる由縁なのです。
日本茶の歴史|千利休
戦国時代のカリスマ茶人「千利休」。利休は生涯をかけて何を追い求め、どんな人生を送ったのでしょうか。カリスマの一生をそのエピソードを交え解説します。
千利休の一生
千利休(1522~1591)は、堺の豪商の家に生まれました。当時の堺は、貿易で栄え商人が自治を行う町でした。
利休は、17歳から茶を習い始め武野紹鴎に師事します。商人として家業に励み財をなす一方で、茶の道を追求し、笑嶺宗訢(しょうれいそうきん)に禅を学びます。
利休が50歳の頃、織田信長が堺の財力に目を付け直轄地とし、利休と他2名を茶頭(茶の湯の師匠)として起用します。信長没後は、豊臣秀吉に仕え、秀吉の関白就任を記念した「禁裏茶会」で親町天皇に茶を献上し「利休居士号」を下賜され、名実ともに天下一の茶人となりました。秀吉の弟・秀長の「内々の儀は宗易(利休)、公儀の事は宰相(秀長)存じ候」という言葉からは、利休が幕府の中心にいたことが分かります。
しかし、その後秀吉の逆鱗に触れ、切腹という形でその生涯を閉じることとなります。
茶室「待庵(国宝)」にみる侘び茶の完成
利休が完成させた侘び茶の精神は、利休の設計した茶室「待庵(国宝)」に凝縮されています。「待庵」は、利休の考える美学を基に、不要なものを極限までそぎ落とし作られた二畳の茶室です。
なかでも利休が大切にした茶の湯の精神は「にじり口」の作りに表されています。「にじり口」は間口が狭く低位置にある入り口です。
たとえ身分の高い武士であっても、刀を外し頭を低くして、這ような体勢にならないと中に入ることができません。茶の湯に集う人は皆、身分の差なく平等の存在だということを「にじり口」は示しているのです。
武士社会の中の「茶の湯」
信長は、家臣達へ茶の湯を奨励しました。許可を与えた家臣にのみ茶会の開催を許し、武功の褒美に高価な茶碗を与えます。名物茶器を持ち、茶の道に精通することが武士のステータスとなるよう仕向けたのです。
その結果、名物茶器の価値は一国一城にも、武将の命にも値するようになりました。ある武将との戦で有利に立った信長が、その武将が持つ名物の茶釜を渡せば命は助けると伝えたところ、その武将が「茶釜だけは渡せない」と、茶釜に爆薬を入れ自爆したと言う信じられない話も残るほど、茶の湯が武士のステータスとなったのです。
エピソードから浮かび上がる「千利休」
利休には数々のエピソードが残され、そのエピソードが千利休の人となりや茶の湯に対する考え方を伝えてくれます。
「侘び茶」の変えられるもの・変えられないもの
利休に茶を点てさせた信長が、利休の茶の点て方が簡略化されていることに気づきます。「何故か?」と問うた信長に、「古法の通りにやっていたのでは、現代の人は根気も無いので嫌がるでしょう。そう思い簡単な作法にしました。」と答えたといいます。
時代に合わせて、侘び茶の作法を変化させることを厭わない柔軟な姿勢と、侘び茶の求める美学やもてなしの心といった精神性には一切の妥協を許さない姿勢を考え合わせると、利休が「侘び茶」において重要視したものが見えてくるのではないでしょうか。
朝顔の茶会
ある初夏の朝、利休は秀吉に「朝顔が美しいので」と、茶会に招きます。秀吉が満開の朝顔を楽しみにやって来ると、庭の朝顔が全て無くなっていました。残念に思いながら秀吉が茶室に入ると、床の間の光が差し込む場所に一輪だけ活けられた朝顔が。一輪だからこそ際立つ朝顔の美しさと、それを見事に演出した利休のセンスに秀吉は感服したといいます。
利休七則(200)
弟子に「茶の湯とは何か」と問われた利休は、のちに「利休七則」と呼ばれる答えを返します。
「茶は服のよきように、炭は湯の沸くように、夏は涼しく冬は暖かに、花は野にあるように、刻限は早めに、降らずとも雨の用意、相客に心せよ」
これに弟子が、それくらいは分かりますと返すと、利休は「もしそれが十分にできるなら、私はあなたの弟子になりましょう」と答えました。当たり前のことこそ難しく、おろそかにしてはならないとする利休の真摯な姿勢が伝わります。
カリスマ茶人「利休」の誕生
秀吉の関白就任を記念した茶会において親町天皇から「利休」の号を下賜された利休ですが、その後「北野大茶湯」を取り仕切り、名実ともに「天下一の茶人」の立場を不動のものとしました。
「北野大茶湯」は、秀吉の権力を示すために開かれた茶会で、農民から身分の高い者まで、身分を問わず茶碗1つで参加でき、参加者には秀吉・利休・その他2人の茶頭が茶をもてなし、1日で1000人近くが参加したといわれています。
切腹
秀吉に命じられ切腹した利休ですが、最期の言動にまで徹底した茶の湯の精神が表れています。
秀吉の「切腹せよ」との言葉を伝えに来た使者に、利休は「茶室にて茶の支度ができております」と伝え、茶を点て、もてなした後に切腹したと伝えられています。
さらに、切腹前にある人へ宛てた手紙には、「心だに岩木とならばそのままに みやこのうちも住みよかるべし(心さえ岩や木のように感情を殺していれば、都も住みよかったのに)」と書かれていました。「私は心(茶の湯の精神)を偽ることができません、それならば死を選びます。」という心情を、歌にして送ったのです。
日本茶の歴史|村田珠光
絢爛豪華で単に楽しむためのものだった茶会を、精神性を追求する「茶の道」へと変化させる基礎を見いだした、村田珠光をご紹介します。
村田珠光とは
村田珠光(1422~1502)は大和国(現・奈良県)に生まれました。珠光は、成長し浄土宗・称名寺に入寺しますが、出家することを嫌い京で能阿弥に師事します。そこで茶の湯・和漢連句・能・立花・唐物目利きを習い、能阿弥の推薦で足利義政の茶道師範となったといわれています。また、臨済宗の僧・一休宗純とも交流があり、彼から禅を学びました。
そして、これらの経験を基に「侘び茶」の基礎となる精神を見い出しました。
珠光の時代は、舶来品を愛でながら茶を楽しむ豪華な茶会(殿中の茶)が中心でしたが、珠光が見いだした「新しい茶の湯」の精神が、珠光の死後も弟子に受け継がれ、やがて今日の茶道へとつながっていくのです。
村田珠光が目指した「侘び茶」
珠光が残した言葉から、珠光の目指した「侘び茶」をみてみましょう。
「物」に関する言葉
珠光は「和漢のさかいをまぎらかすこと肝要」という言葉を残しています。
唐物だけを良しとした風潮に対し、日本の焼物のもつ素朴な美しさにも関心を寄せることが肝心だと主張し、新たな美意識を茶の湯の世界にもたらしました。そんな珠光が残した茶道具は「珠光名物」と呼ばれ、そのうちの1つの茶碗を千利休が使用していたとの逸話も残されています。
また「月も雲間のなきは嫌にて候(光輝く満月よりも、雲の間に見え隠れする月の方が趣があり良い)」という言葉からは「不足の美」を良しとする、「新しい茶の湯」の姿が見えます。この美意識は茶室を作る際にも影響し、珠光は茶室を四畳半という狭い空間に区切り、装飾を排することで現れる美を目指したのです。
「心・精神」に関する言葉
禅の影響を受けた珠光は「物を極限まで排することで現れる美」を追究しました。そして、物の不足を「心の豊かさ」で補うことを目指したのです。
茶の湯の「心・精神」を重視した珠光は、茶の湯の道にとって最も大きな妨げとなるのは「慢心と自分への執着」であるとし、どんなに上達しても人には素直に教えを請い、初心者にはその修行を助けることを説いています。
さらに、珠光が弟子に宛てた一節に「心の師とはなれ、心を師とせざれ。」があります。「移ろいやすい心に振り回されず、自分が心をコントロールする立場になりなさい」という意味です。
珠光は茶の湯を、心をコントロールし自分自身と対峙する「精神修行の場」とすることを目指したのです。
村田珠光に影響を与えた人物
いかにして珠光の考え方が作られたかのか。珠光に強く影響を残した、2人の人物をご紹介します。
能阿弥
能阿弥との出会いなくして、珠光の新しい発想は生まれませんでした。
能阿弥から学んだことは、茶の湯・和漢連句・能・立花など、当時の一流の文化です。それらを学ぶことにより審美眼を磨き、後述の禅の思想が融合することで、珠光の目指す茶の湯が作られました。なかでも和漢連句には、強く影響を受けたと思われます。和歌と漢詩の受け答えを繰り返す和漢連句に親しむことにより、「和漢のさかいをまぎらかす」との考えが生まれたことは、容易に想像できます。和と漢どちらも知った上で融合し、さらに新しいものへ発展させるという考えがここから生まれました。
禅僧・一休宗純
珠光は、「一休さん」として有名な禅僧・一休宗純からも大きな影響を受けています。
禅僧・一休宗純は自由を追い求め、反骨精神にあふれた禅僧でした。珠光は、「無駄を排する禅の教え」や「何ごとにもこだわらず、本質を追い求める心」を一休から学んだのです。
侘び茶は珠光により完成された訳ではありません。しかし、珠光は「佗び茶が目指し、進む道を示す」という重要な役割を果たしたのです。その後、珠光の考えは富裕層の支持を得て広まり、弟子達が研鑚を重ねたことで茶の湯文化の完成につながっていくこととなります。
世界のお茶の歴史|ケニア
コーヒーの生産地としても有名な赤道直下の国・ケニア。そして実は、ケニアは世界有数のお茶の生産国でもあります。
今回は、そんなケニアのお茶作りの歴史をご紹介していきます。
ケニアのお茶の歴史
ケニアは、インドやスリランカと同じく、イギリスの植民地となっていた国でした。そんなケニアでのお茶の歴史は比較的浅く、お茶の栽培がはじまったのは1900年代初頭でした。
ケニアの茶栽培の発祥
初めてイギリスからケニアにお茶が持ち込まれたのは1903年。当時栽培されていたのは、インド原産のアッサム種でした。
ケニアは土壌が豊かで、気候条件も茶の栽培に適していたため、当時有望な茶の栽培地として期待を集めていました。
ただし、ケニアで商業的なお茶の栽培が開始したのはイギリスから独立した後。というのは、植民地時代、ケニアでは個人が自由に紅茶を栽培することが許されていなかったからです。
そしてイギリスからの解放後、わずか50年ほどでケニアの茶産業は急成長を遂げ、インドやスリランカに次ぐ世界有数の紅茶の生産地となりました。
ケニアのお茶作りの現在
現在、ケニアのお茶の栽培面積は14万ヘクタールほどあり、32万トンもの年間生産量を誇ります。
また、茶栽培の製造や流通産業を含めると、お茶作りに携わる人々の数は、なんと人口全体の1割に当たる約400万人ほどだそうです。
ケニアが現代においても世界有数のお茶の産地であり続ける理由がよく分かります。
東アフリカへの拡大
ケニアのお茶産業が成功するとともに、ウガンダやタンザニア、マラウィやモザンビークといった東アフリカ諸国へお茶作りは広まっていきました。
それらの国々の最大の輸出国は、イギリス。
たとえば、マラウィで生産されるお茶の90%、モザンビークのお茶の80%がイギリス向けに輸出されています。
日本茶の歴史|明恵上人
明恵上人は、僧侶として素晴らしい功績を残したその一方で、栂尾の茶栽培の基礎を築いた人でもあります。そんな明恵上人についてご紹介します。
僧侶・明恵上人
明恵上人は、幼い頃に両親を亡くし仏門に入り、華厳宗・真言密宗などを次々に学び将来を嘱望された僧侶でした。34歳の時には、後鳥羽上皇より京都栂尾の地を賜り、高山寺を開きます。明恵上人は、宗派にこだわるよりも仏陀の説いた戒律を守ることが最も大切と考え、身をもって実践しました。また、戦で身寄りを失った女性など、弱い立場の人々の救済を積極的に行います。その姿に感銘を受けた多くの人々に支持されながら修行に励み、59歳で亡くなりました。
京都の茶の始祖・明恵上人
栄西との出会い
宗派にこだわらず大乗仏教を学んでいた明恵上人は、禅を学ぶために栄西の元を訪れます。その時に禅だけで無く中国で学んだ「茶」について、栄西が明恵上人に伝授しました。禅の修行における茶の活用法・茶の効用・栽培方法・栽培に適した土地について等、栄西は自分が学んだ茶にまつわる知識を明恵上人に伝え、喫茶を推奨しました。ちなみにこの時代、茶は点茶法で飲まれていました。今の抹茶と同じように石臼で挽いて粉にしたお茶を茶筅で点てる飲み方です。
栄西から届いた茶の種
京都栂尾に帰った明恵上人に、栄西から漢柿蔕茶壺(あやのかきへたちゃつぼ)に入った茶の種が届きます。明恵上人はさっそく茶の栽培を始めると同時に、修行に励む僧侶にも茶の効用を説き、積極的に喫茶を広めていきます。
一粒の種から茶園へ
明恵上人が始めた栂尾の茶栽培は、その後約2世紀にわたり栄えることとなります。栂尾は茶の栽培に適した土地であったため、良質の茶が生産できたのです。当時は、その質の高さから栂尾産の茶を「本茶」その他の産地の茶を「非茶」と呼ばれるほどの人気でした。高山寺では、明恵上人の功績に感謝を捧げ新茶を献上する「献茶式」が毎年11月に行われています。
栂尾から宇治へ
栄西から茶の栽培に適した土地・気候について教えを受けた明恵上人は、茶の栽培を宇治へと広めました。「朝ぼらけ 宇治の川霧たえだえにあらわれ渡る 瀬々の網代木」と歌にあるように、川霧が立ち涼しい気候の宇治は、茶の栽培に適した土地だと判断したからです。その判断は正しく、後に宇治の茶は「天下一の茶」として全国にその名を轟かせるようになります。宇治の万福寺の山門には、「栂山の尾の上の茶の木分け植えて 跡ぞ生うべし駒の足影」と刻まれた石碑があります。栂尾で育てた茶の木を分けてもらった宇治の人々が、植え方が分からずにいたところ、明恵上人が馬に乗ったまま畑へ入りその足跡へ茶の木を植えるよう教えたとされる逸話が歌になり残っているのです。
茶十徳
明恵上人は湯釜の側面に「茶十徳」と呼ばれる、10個の茶の効用を刻みました。
諸天加護
強い根を張り一年中緑を保つ茶の生命力が、飲む人を守ります。
無病息災
茶を飲むことで病にかかることなく元気に過ごせます。
父母孝養
茶の深い味わいは心を整え、父母への感謝の心を育てます。
朋友和合
喫茶の習慣が親しい間柄の語らいを生み、関係性を深めます。
悪魔降伏
茶の成分が心身の疲労を解消し、心の迷いまでも取り払います。
正心修身
喫茶の礼節や作法には、精神修養の効果があります。
睡眠自除
茶が眠気を払います。
煩悩消滅
茶を飲むことで、煩悩が消滅します。
五臓調和
茶を飲むことで内臓の調子が整います。
臨終不乱
茶飲む人は心身共に整っているので死に臨んでも取り乱すことがありません。
このように、現在も知られている茶の覚醒効果や心を静める効果が、当時から認識されていたことが分かります。天皇初めたくさんの人々に慕われ尊敬された明恵上人の人柄に、茶の効用が影響を与えていたと明恵上人自身が認識していたとも考えられます。
日常生活の中に今まで以上に茶を取り入れ、茶の持つ10の恩恵にあやかってみませんか。
日本茶の歴史|売茶翁
千利休が侘び茶の祖と称されるのに対し、煎茶の祖と呼ばれるのが売茶翁(高遊外)です。煎茶を広めると同時に、当時の文化人に多大な影響を与えた売茶翁の生涯をご紹介します。
売茶翁とは
売茶翁の愛称で知られる高遊外(1675~1763)は蓮池藩(現佐賀県)の藩医の下に生まれ、黄檗宗龍津寺の化霖和尚の下で僧「月海元昭」となります。
50年近く修行に励んだ売茶翁でしたが、堕落した仏教界に失望し、僧をやめ京都に移り住みます。「茶亭・通仙亭」を開いた売茶翁は、風光明媚な場所に出向き茶を売る「移動販売」のようなこともしていました。
彼のもとには、その人柄に魅せられた文化人が集うようになり、この時から「売茶翁」と親しみを込め呼ばれるようになります。その後、僧侶としての名を捨て「高遊外」と名を変え売茶を続けますが、高齢となり体力の衰えを感じ売茶業を廃業し、89歳で生涯を閉じました。
エピソードから見る売茶翁
「高遊外」の由来
売茶翁は僧として「月海元昭」の名を持っていました。ある時、現在の暮らしぶりについて聞かれ「こういう具合に暮らしています。」と答えたところ、「こう優雅に暮らしています。」と聞き間違えられてしまいます。それを面白く思った売茶翁は「こう優雅に」の部分をもじり「高遊外(こうゆうがい)」と名乗ったといいます。
茶の良さを知ってもらうことが第一
通仙亭の看板には「茶銭は黄金百鎰より半文銭までくれしだい、ただにて飲むも勝手なり、ただよりほかはまけ申さず。」と書かれていました。
その意味は、「お茶代は、小判二千両(現在の一億円以上)から半文(現在の約30円)までいくらでもくれるだけ。 ただで飲んでも結構です。ただより安くはできません。」というものでした。
この文言からは、茶を飲んでもらい、茶の良さを知ってもらうことを第一に考えた売茶翁の姿勢が読み取れます。
新しいスタイルの「煎茶」を広める
売茶翁は、権力と結びつき形ばかりとなった当時の茶の湯を良しとせず、唐の陸羽(りくう)や廬同(ろどう)の「清風の茶」の世界を理想としました。
余計な作法や物を取り払い、シンプルに茶を楽しむ売茶翁の煎茶のスタイルは、庶民にまで広まっていきました。
最先端の文化人が憧れた売茶翁
江戸が日本の中心になった時代とはいえ、京都は依然、文化の最先端を行く大都市でした。
そんな地で売茶翁は、文化人達から絶大な人気を得ます。
売茶翁の教養の高さ、信念のもと自由に生活するスタイル、ウイットに富んだ語り口が人々を魅了したのです。その生き方や思想に影響された人の中には、伊藤若沖・与謝蕪村・渡辺崋山・松平定信・田能村竹田など、現在にも名を残す錚錚たる人物達がいたのです。
茶道具を自ら燃やす
売茶翁は高齢となり売茶業を廃業後、大切にしていた茶道具を自ら焼いてしまいます。それは、清貧の道を共に過ごした茶道具への愛情からでした。
「貧しく頼る人もいない私を支えてくれたのは、おまえ達(茶道具)だ。しかし、もうおまえ達を使うことができない。私が死んで、おまえ達が俗物の手に渡り辱められたら、私を恨むだろう。だから火葬にしてやろう。」と、売茶翁は、その気持ちを書き残していています。
茶道具への深い愛情が伝わるエピソードですが、茶道具が燃やされたことで「売茶翁の茶のスタイル」が後世に残らなかったことは大きな損失となりました。
売茶翁の目指した「茶」
売茶翁は浮世離れした仏教界から離れ、自活しながら精神的な高みを目指すことを選びました。その自活のための手段が「売茶」だったのです。そして、形骸化した茶の湯の世界に反発心を抱いた売茶翁が選んだ茶は「抹茶」ではなく「煎茶」でした。
売茶翁は、売茶の場を「サロン」にすることを目指したのではないでしょうか。事実、売茶翁の下には庶民から文化人まであらゆる人々が集い、茶を楽しむと同時にお互いを高め合う議論や交流が盛んに行われました。その中には、先にご紹介した名立たる画人・文人がいることを考えると、売茶翁の目論見は見事成功したといえるのではないでしょうか。
日常の雑事から離れ親しい人と談笑し茶を楽しむ時間の中に、売茶翁が追求めた人生の喜びや本質が見えてくるのかもしれません。
世界のお茶の歴史|インド
世界有数のお茶の生産地であるインド。しかしその歴史はイギリスの植民地政策を背景にして築かれたものでした。
ここでは、そんなインドのお茶の歴史をご紹介していきます。
インドのお茶の歴史
インドといえば、ダージリンやアッサムといった、世界有数の紅茶の原産地として有名です。ここでは、そんなインドにおけるお茶の歴史を時系列順にご紹介していきます。
東インド会社の貿易独占とアヘン戦争
インドにおけるお茶の歴史を理解するためには、まず当時のイギリスの状況について触れておく必要があります。
17世紀ごろ、オランダ人がヨーロッパにお茶をもたらして以来、イギリスでは手軽に楽しめる嗜好品としてお茶が一大ブームを巻き起こしていました。当時のイギリスでは、宮廷の貴族から一般庶民まで、幅広い層の人々の間でお茶が楽しまれていたようです。
その人気ぶりは、お茶が原因となって2度も戦争が起こったほど。
1度目は、オランダが中国茶の交易権を独占していたことに対する反発から起こった、「英蘭戦争」。
これに勝利したイギリス東インド会社は、中国からお茶を輸入する独占交易権を手に入れます。
ただし、その後もイギリス国内での茶の需要は急増し、お茶を輸入していた中国との間に著しい貿易の不均衡が生じます。そして、それがきっかけとなって「アヘン戦争」が引き起こされることになりました。
もはや中国からの輸入のみで茶の需要をまかなうことに限界を感じたイギリスは、自国の植民地であるインドでお茶の栽培を行うことを決意します。
アッサム種の発見とプランテーション農業の展開
イギリスがインドにおけるお茶の栽培に踏み切ることができた理由は、19世紀にインドで「アッサム種」という新しいお茶の品種が発見されたことでした。
イギリスはそれまでにも中国産のお茶をインドに移植することを試みていたのですが、中国種はインドの気候と合わず、挫折を繰り返していたのです。
そのような中、インドの気候に適したアッサム種が発見されたことにより、各地で大規模なプランテーション農業が展開されていくことになりました。また、お茶の栽培がインドで進んでいくにつれて、1841年にはダージリン地方で中国種が育つことが発見されます。2つの種類のお茶を生産できるようになったインドはその輸出量を急激に伸ばし、紅茶大国として名を馳せるようになっていきました。
現代でも有名な紅茶の銘柄である「アッサム」や「ダージリン」は、このようなイギリスの植民地支配を背景として誕生したものだったのです。
チャイ発祥の地
イギリスの植民地政策によって世界有数の紅茶生産国となったインドでしたが、良質な紅茶はあくまで「輸出用」の商品であり、インドの人々が口にすることはできませんでした。
そこでインドの人々の間で常飲されるようになったのが「チャイ」です。
チャイは、元々お茶の葉のカスを原料として作られていたものですが、お茶の葉のカスはそのまま淹れると苦味が強く、飲むことができません。そこで、インドの人々はそのお茶の葉のカスから挿れたお茶に、砂糖やミルクを混ぜ合わせることで味を整えて飲んでいました。
こうして生まれたチャイは次第にインド人の間で人気を博し、国民的な飲み物となっていったのです。
現代では、チャイはスターバックスコーヒーのメニューなどにも取り入れられ、インドのみならず世界中で愛される飲み物となっています。
世界のお茶の歴史|台湾
近年、タピオカミルクティーのブームなどで注目が集まっている台湾。 そんな台湾は、烏龍茶や紅茶など、世界有数の高品質なお茶の産地でもあります。
今回は、そんな台湾のお茶の歴史について詳しく解説していきます。
台湾のお茶の歴史
ここでは、台湾のお茶の歴史を時系列順に見ていきましょう。
台湾のお茶の発祥
そもそも台湾にお茶が伝わったのは、台湾が清朝支配下にあった1796年ごろだと言われています。中国の柯朝という商人が、福建省の烏龍茶の苗木を台湾に持ち込んだのが台湾茶のはじまりでした。
また、1862年には福建省の指導者によって製茶法が伝わり、中国式のお茶づくりが始まります。
台湾茶の拡大
台湾茶は、英国人であるジョン・ドットのサポートによって急速に拡大していきました。
1865年、彼は台湾の淡水に「寶順洋行」という貿易会社を設立し、中国の福建省から茶苗や種を大量に持ち込んだのです。そして、それを各地の農民に貸し付け、収穫後に再度茶葉を買い取るというシステムを築き上げました。
さらに、1866年には中国の福建省を通じて、台湾の茶葉がアメリカやオーストラリアに輸出されることに。
品質が良く、特にアメリカで人気を博した台湾のお茶は、1969年には「Formosa Tea」(麗しの島のお茶)という名前で輸出されるようになります。
また、1972年にはイギリスへの輸出を開始するなど、台湾茶は徐々に販路を拡大していきます。
日東紅茶の影響
日本で古くから親しまれている国産ブランドとして有名な「日東紅茶」。しかし、実は日東紅茶は当初台湾で製造されていたものでした。
ここでは、戦時下の日本が台湾の茶業に与えた影響について述べていきます。
台湾茶業の推進
1895年、日清戦争で日本が勝利したことにより、台湾は日本の統治下に置かれることになります。
そして、1903年には統治政策の一環として紅茶に関する試験場を設置することになり、台湾の中で茶業がさらに推進されていくことになりました。
三井合名会社の進出
三井合名会社は、日本による統治がはじまってすぐに台湾へ進出した企業のひとつでした。
1908年には台湾支社を設立し、イギリス方式の大量生産方式を導入します。
台湾茶業の中核を担っていた三井は、大寮や大渓、苗栗などに次々と茶工場を設置。
1924年になると本格的な茶製造を開始し、台湾内地で缶詰の「三井紅茶」(のちに「日東紅茶」に改名)を販売するに至ります。
その後、「日東紅茶」は日本の中流以上の家庭でも消費されるようになり、徐々に国産紅茶ブランドとしての認識が浸透していきます。
そして、日本の占領から解放後、茶業の設備や資本などは全て台湾農林が接収することになりました。
もちろん戦争による支配は許されることではありませんが、このように三井の行なった事業が現在の台湾の茶業の基盤となっていることは事実です。
現代
現在も台湾では茶業が盛んに行われており、烏龍茶のほか、紅茶が世界中で高い評価を受けています。台湾の紅茶は標高600〜800mの傾斜地で栽培されており、山間部が生む独特の香りを楽しむことができるからです。
また、豊富な種類の紅茶を楽しめるのも台湾茶の魅力のひとつ。 現在では以下のような様々な種類の紅茶が栽培されています。
- 台茶7号、台茶8号(ミルクティーに適した味)
- 台茶18号(シナモンやミントの香り)
- 台茶22号(フローラルの香り)
- 台茶23号(レモンや柚子のようなさっぱりした香り)
この中で、台茶18号は欧米の人が、台茶23号は若年層が好む味というように、それぞれのターゲット層が異なっているのが特徴です。
今後も新たな客層を取り込むための品種開発が行われていくことが予想されるので、台湾の茶業はますます発展していきそうです。
世界のお茶の歴史|欧米
お茶は欧米でも人気の嗜好品であり、過去にはその輸出入を巡って戦争が起きるほどでした。
この記事では、お茶の伝来から現代のお茶の消費習慣まで、欧米におけるお茶の歴史を詳しく解説していきます。
欧米のお茶の歴史
お茶の伝来
お茶が中国からヨーロッパに伝わったのは1610年のこと。オランダの「東インド会社」が持ち帰ったのがきっかけです。
ヨーロッパといえば紅茶のイメージがありますが、最初に伝播したのは紅茶ではなく、緑茶でした。
ただし、お茶が伝わった当初は非常に高級品であったため、上流階級のみが楽しむ嗜好品として位置付けられていました。
そして、お茶はオランダからイギリスにも伝わり、貴族の間で一大ブームを巻起こすことになります。
東インド会社の拡大と衰退
オランダの東インド会社は、東南アジアや中国、日本などの交易を独占するなど、他のヨーロッパ諸国に対して排他的な貿易を行なっていました。
そのため当時のヨーロッパでは、お茶などの東アジア・東南アジアの商品を、オランダを通すことでしか手に入れることができませんでした。
貿易を独占した東インド会社は大きな利潤をあげているように見えましたが、やがて会社内部の不正や、お茶を巡るイギリスとの戦争によって徐々に勢いが衰えていきます。
さらに、18世紀に入るとさらにイギリスの力が増し、オランダはやむを得ず東インド会社の解散を言い渡すことになります。
アヘン戦争とプランテーションの始まり
オランダから伝わったお茶は、18〜19世紀にはイギリスで大きなブームとなりました。そしてヨーロッパ最大のお茶消費国となったイギリスは、中国から大量の茶を輸入することに。
当時、イギリスはお茶の対価として銀を支払っていたのですが、次第に貿易の不均衡は著しくなり、イギリスからの銀の流入量が非常に大きくなってしまいます。それに不満を抱いたイギリスは、その対抗策として中国にアヘンを売ることにしました。
結果、中国ではアヘンが蔓延し、国内の治安や風紀が大いに乱れます。中国王朝はアヘンの輸入禁止や密貿易の取り締まりに乗り出しますが、イギリスは武力でそれに対抗し、「アヘン戦争」が引き起こされました。
アヘン戦争の戦勝国となったイギリスは、没収したアヘンの代価や多額の賠償金を中国に対して請求。支配的な存在であった中国は没落し、イギリスはその国際的な地位を高める結果となりました。
プランテーションのはじまり
当初は自国で消費するほとんどのお茶を中国からの輸出に頼っていたイギリスでしたが、1830年代には植民地であるインドで茶の栽培を始めています。
その理由は、インドのアッサム地方で茶の木が発見されたからでした。
現代でも人気な紅茶の品種、「アッサムティー」の名前の由来はこのインドの地名から来ています。 その結果、1839年にはロンドンのオークションで最高値がつくほど上質なお茶が、インドで栽培されるようになりました。
そして、プランテーション方式でお茶を生産する、「アッサム株式会社」がイギリスの後援で発足することになったのです。
なお、プランテーションが展開された地域はアッサム地方のほか、ビハール州やベンガル州など多岐に渡ります。特に、西ベンガルのダージリンで栽培されている紅茶は現代でも非常に人気です。
現代のお茶の消費習慣
歴史的に見ると、欧米におけるお茶はその輸出入を巡って戦争が起きるほど愛された飲み物でした。
現代でもお茶が人気なことは変わらず、世界におけるお茶の消費量トップ10を見ると、イギリスやアメリカなどの欧米諸国もランクインしていることがわかります。
また、元々は単なる嗜好品であったお茶ですが、近年では違った角度からお茶を捉える動きも少しずつ広がっています。
たとえば、アメリカではその健康効果が話題を呼び、スターバックスコーヒーなどでも玉露や煎茶の取り扱いが行われているのは有名な話です。
日本からアメリカへのお茶の輸出量が2000年から2014年にかけて6.5倍に増えていることからもわかるように、すでにその健康食としての消費習慣は多くの人に根付いていると言えるでしょう。
このように、お茶は時間や国境を超え、世界中で愛され続けている飲み物の一つなのです。
世界のお茶の歴史|中国
お茶の生産量・消費量ともに世界第一位のお茶大国・中国。お茶の発祥の地でもある中国の茶の歴史は、そのまま世界のお茶の歴史と言っても過言ではありません。
今回は、そんな中国におけるお茶の歴史を時系列に沿ってご紹介していきます。
中国のお茶の歴史
唐時代(618〜907年)
お茶を飲む習慣は今からおよそ1300年前、唐の時代に中国全土に広がりました。
当時のお茶は非常に高級品で、庶民はお茶を飲むことができず、主に皇帝への献上品や貴族階級が飲むものとしての認識が一般的でした。
この頃のお茶の主流は「餅茶(びんちゃ・へいちゃ)」という固形茶だったと言います。
餅茶は、蒸した茶葉を圧縮して乾燥させたもので、飲む際はその塊からお茶を削り、塩を入れた湯で煮てから飲みます。当時の技術では、運搬中に湿気を吸ってしまうなど、大量に運ぶには固形の方が適していたため、この形が主流でした。
ちなみに、遣唐使などを通じて日本に初めて伝来したのもこの餅茶です。
『茶経』
同じく唐の時代、世界最古の茶書である『茶経』が執筆されます。
『茶経』を著したのは、文人であり茶道の元祖とも言われる陸羽という人物。茶の起源や製造法、茶道具、歴史、産地など、茶にまつわるあらゆることが記されています。
また、ここではお茶は単なる飲料としてではなく、「行いが優れており、人徳のある人物が飲むべきものである」と説かれています。
宋時代(960〜1279年)
宋の時代になると、お茶は貴族のみならず、役人や文人などの富裕層にも飲まれるようになります。まだまだ一般市民に普及するような消費財ではありませんでしたが、詩や書など、当時の文化と密接に結びつき始めたのはこの時代です。
この時代、唐代に主流だった餅茶の製造法がやや複雑になり、「片茶・団茶」と呼ばれるようになりました。
また、日本では鎌倉〜室町時代に行われていた「闘茶」の文化が盛んになったのもこの頃です。
闘茶とは、お茶を飲み比べることで産地や良し悪しを判別する一種のゲームのこと。日本では次第にゲーム性が増していき、賭け事を行ったり酒食を持ち込んだりするようになり、過激になりすぎた闘茶は足利尊氏の時代に禁止されたほど。
中国ではあくまで高尚な遊戯として広まり、茶文化の発展に寄与しました。
茶器の発展
茶が富裕層に広まったほか、お茶を淹れる・飲むための茶器がお茶を楽しむための重要な道具として認識されはじめたのも宋の時代のことです。
茶の色を楽しむための白磁や、器自体の色を楽しむ青磁などを作る技術が発展していきました。
明時代(1368〜1644年)
明の時代には、お茶がさらに民衆の文化に浸透し、富裕層だけではなく庶民もお茶を飲むようになります。
この時代、団茶は製造に手間がかかる上、品質それほど高くなかったことから、臼などで茶葉を細かく砕いて作られる「散茶」というお茶が主流になっていきました。
殺青の方法も、これまでの蒸し製から釜炒り製へと変化し、お茶の形と味わいが大きく変化したのもこの時代のことです。結果としてこの散茶が、団茶と比べて味も香りも大きく向上したため、広く普及したと言われています。
また、明代までの急須は鉄や銀製のものが主流でしたが、この時期には陶製の急須が作られて用いられるようになりました。
清時代(1616〜1912年)
清時代は、中国の歴史の中でお茶が最も栄えた時代です。茶葉や茶器はほぼほぼ完成し、現代と変わらない品質のお茶が飲まれていました。
現代でも馴染み深い烏龍茶が福建省で開発されたのもこの時代です。
また、茶器にこだわり、ゆっくりと時間をかけてお茶を楽しむ文化も生まれました。
多様な茶の楽しみ方の形成
清の時代は、お茶の楽しみ方が多様になった時代でもありました。
各地で特色ある銘茶が生まれ、市場では六大茶(青茶・黒茶・緑茶・紅茶・白茶・黄茶)が販売されていました。
また、浙江や江蘇の人々は緑茶を、北方の人々は花茶を好んで飲むというように、地域ごとに好まれるお茶も異なっていたようです。
イギリスに対する紅茶の輸出
清時代の特徴として、紅茶を大量に輸出していたことが挙げられます。
特に清朝によって1685年にヨーロッパ諸国の通商が許可されてからは、対外向けに大量の紅茶が輸出されることになりました。その最大の貿易先となったのがイギリスで、清にとって紅茶は銀を獲得するための大きな手段となっていました。
ところが、イギリス側が大量のお茶を輸入していたのに対し、中国側はそれほどイギリスからの輸入を行わなかったため、著しい貿易の不均衡が発生。そこでイギリスはアヘンを中国に売りつけることで銀の回収を試み、それがきっかけとなって「アヘン戦争」が勃発することになります。
このように、当時の中国はお茶によって国内の情勢が左右されるほどの産出量を誇っていたのです。
現代
現代の中国におけるお茶は「国飲」として位置付けられており、国民的な飲み物として親しまれています。
その生産量・消費量はともに世界一で、現代の中国はまさに「お茶大国」と言えるでしょう。
また、大阪観光大学観光学部の王静氏によれば、「中国で最も飲まれているのは烏龍茶やジャスミン茶ではなく、緑茶だ」とのこと。
中国の緑茶は日本の蒸し製のお茶とは異なり、釜炒り製法で作られるため、日本よりもすっきりとした味わいになっているのが特徴です。
世界のお茶の歴史|スリランカ
世界的に有名な紅茶、「セイロンティー」の発祥の地でもあるスリランカ。
この記事では、そんなスリランカのお茶の歴史をご紹介していきます。
スリランカのお茶の歴史
スリランカのお茶作りの歴史は、インドやケニアと同様、イギリスの植民地政策によってはじまりました。ここでは、そんなスリランカにおけるお茶作りの歴史を、時系列に沿ってご紹介していきましょう。
かつてはコーヒーの名産地?
今でこそ有名な紅茶の生産地として知られているスリランカですが、元々は世界有数のコーヒーの産地として知られていました。当時ヨーロッパで大きな力を持っていたオランダが、1658年から植民地政策の一環としてスリランカでコーヒー栽培を行っていたからです。
コーヒーは降水量や日照時間が多い場所でしか育たない作物なので、熱帯性気候のスリランカは栽培地としてうってつけでした。
その結果、スリランカでのコーヒー生産量は急増し、19世紀にはコーヒーの輸出量が世界1位に躍り出るほどの名産地へと成長していきました。
コーヒー農業の終焉と紅茶生産のはじまり
当初オランダによって統治されていたスリランカでしたが、1802年には支配国がイギリスへと変わります。
その後もスリランカでは盛んにコーヒー農業が行われていましたが、1868年に「サビ病」がコーヒー園に蔓延することに。サビ病は、葉にオレンジの斑点ができるカビ由来の伝染病の一種で、サビ病にかかった植物は最終的には枯れてしまいます。
このサビ病によって壊滅的な被害を受けたコーヒー産業は衰退し、代わりに当時イギリスで大流行していたお茶が生産されるようになりました。
当初スリランカに持ち込まれたお茶の種類は、19世紀にインドで発見されたアッサム種。インドではそのころ、スリランカと同じくイギリスの植民地支配を受けており、お茶の生産地として大規模なプランテーション農業が行われていました。
スリランカは、そんなインドを拠点とする茶産業の生産力アップのための土地として選ばれました。
「リプトン」発祥の地
上述した通り、スリランカでは、当初インドから持ち込まれたアッサム種が栽培されていました。
そのアッサム種をスリランカに持ち込んだのは、「トーマス・リプトン」という人物。現代でも世界有数の紅茶メーカー「リプトン」の創業者です。
彼は、39歳で紅茶事業に参入し、セイロン島の茶園を全て買い占めて紅茶ビジネスを開始しました。
商才のあったリプトンは、「茶園からそのままティーポットへ」というキャッチフレーズを産み出し、各国でキャンペーンを開始します。そして、そのキャンペーンが功を奏し、「セイロンティー」と「リプトン」の名は世界に広まっていくことになったのでした。
日本茶の歴史|江戸時代
江戸時代は、玉露の開発や日本茶の輸出の開始など、日本茶史上で非常に重要な時期でした。
ここでは、そんな江戸時代のお茶の歴史を解説していきます。
煎茶・玉露の開発
京都の宇治では古くからお茶栽培が行われていましたが、16世紀後半には「覆い下栽培」という独自の栽培方法を生み出し、旨味の強いお茶を作ることに成功していました。
ただ、この覆い下栽培は誰にでも許されていたというわけではなく、「御茶師三仲間」という限られた役職の家のみが用いることのできた方法でした。
そのような中、煎茶の新たな製法を開発したのが永谷宗円(1681〜1778)という人物。 彼は試行錯誤の末、元文3年(1738)に、「青製煎茶製法」という製法を考案しました。
青製煎茶製法というのは、乾燥炉の中で茶葉を乾燥させながら手で揉む製茶方法のことです。この方法によって、従来よりも味や香りが格段に良いお茶が誕生します。
その後、宗円がこの茶を持って江戸に赴いたところ、日本橋の茶商であった山本嘉兵衛がこれを絶賛。宗円のお茶は山本嘉兵衛を通じて販売されることになり、以後各地に製法とともに伝播していきました。
そして、1835年には6代目山本嘉兵衛が「甘露の味がする」と評されたお茶を作り上げ、現代でも親しまれている「玉露」が誕生したのです。
江戸時代に飲まれていたお茶って?
江戸時代には庶民の間にもお茶を飲む文化が浸透していました。
研究者の西村俊範氏によると、庶民に親しまれたお茶の種類は、茶褐色の番茶から黄緑色の緑茶へと次第に上質化していったそうです。
家庭や身分によっても飲まれていたお茶はやや異なるようですが、大まかに言うとこのような変遷があったことは間違いないでしょう。
お茶の流通の近代化
江戸時代は、問屋・仲買・小売商など、現代にも通ずるような流通形態が発達した時代でもありました。
お茶の製法が全国各地に伝播していったきっかけは、このような流通の発達が関係していたといっても過言ではありません。
また、江戸時代の日本が鎖国政策をとっていたことは周知の事実ですが、唯一長崎の出島だけは貿易が認められていました。 当時のお茶は、日本にとって重要な輸出品として、対外貿易の基盤を担っていたのです。
アメリカやイギリスとの不平等条約を締結した当時、お茶は181トンも輸出されていたと言います。
このような経緯から、明治に入ってからもお茶は外貨獲得のための有用な輸出品目として認識されていました。