July 31, 2020
お茶にまつわる人物|千利休

戦国時代のカリスマ茶人「千利休」。利休は生涯をかけて何を追い求め、どんな人生を送ったのでしょうか。カリスマの一生をそのエピソードを交え解説します。

千利休の一生

千利休(1522~1591)は、堺の豪商の家に生まれました。当時の堺は、貿易で栄え商人が自治を行う町でした。利休は、17歳から茶を習い始め武野紹鴎に師事します。商人として家業に励み財をなす一方で、茶の道を追求し、笑嶺宗訢(しょうれいそうきん)に禅を学びます。利休が50歳の頃、織田信長が堺の財力に目を付け直轄地とし、利休と他2名を茶頭(茶の湯の師匠)として起用します。信長没後は、豊臣秀吉に仕え、秀吉の関白就任を記念した「禁裏茶会」で親町天皇に茶を献上し「利休居士号」を下賜され、名実ともに天下一の茶人となりました。秀吉の弟・秀長の「内々の儀は宗易(利休)、公儀の事は宰相(秀長)存じ候」という言葉からは、利休が幕府の中心にいたことが分かります。しかし、その後秀吉の逆鱗に触れ、切腹という形でその生涯を閉じることとなります。

茶室「待庵(国宝)」にみる侘び茶の完成

利休が完成させた侘び茶の精神は、利休の設計した茶室「待庵(国宝)」に凝縮されています。「待庵」は、利休の考える美学を基に、不要なものを極限までそぎ落とし作られた二畳の茶室です。なかでも利休が大切にした茶の湯の精神は「にじり口」の作りに表されています。「にじり口」は間口が狭く低位置にある入り口です。たとえ身分の高い武士であっても、刀を外し頭を低くして、這ような体勢にならないと中に入ることができません。茶の湯に集う人は皆、身分の差なく平等の存在だということを「にじり口」は示しているのです。

武士社会の中の「茶の湯」

信長は、家臣達へ茶の湯を奨励しました。許可を与えた家臣にのみ茶会の開催を許し、武功の褒美に高価な茶碗を与えます。名物茶器を持ち、茶の道に精通することが武士のステータスとなるよう仕向けたのです。その結果、名物茶器の価値は一国一城にも、武将の命にも値するようになりました。ある武将との戦で有利に立った信長が、その武将が持つ名物の茶釜を渡せば命は助けると伝えたところ、その武将が「茶釜だけは渡せない」と、茶釜に爆薬を入れ自爆したと言う信じられない話も残るほど、茶の湯が武士のステータスとなったのです。

エピソードから浮かび上がる「千利休」

利休には数々のエピソードが残され、そのエピソードが千利休の人となりや茶の湯に対する考え方を伝えてくれます。

「侘び茶」の変えられるもの・変えられないもの

利休に茶を点てさせた信長が、利休の茶の点て方が簡略化されていることに気づきます。「何故か?」と問うた信長に、「古法の通りにやっていたのでは、現代の人は根気も無いので嫌がるでしょう。そう思い簡単な作法にしました。」と答えたといいます。時代に合わせて、侘び茶の作法を変化させることを厭わない柔軟な姿勢と、侘び茶の求める美学やもてなしの心といった精神性には一切の妥協を許さない姿勢を考え合わせると、利休が「侘び茶」において重要視したものが見えてくるのではないでしょうか。

朝顔の茶会 

ある初夏の朝、利休は秀吉に「朝顔が美しいので」と、茶会に招きます。秀吉が満開の朝顔を楽しみにやって来ると、庭の朝顔が全て無くなっていました。残念に思いながら秀吉が茶室に入ると、床の間の光が差し込む場所に一輪だけ活けられた朝顔が。一輪だからこそ際立つ朝顔の美しさと、それを見事に演出した利休のセンスに秀吉は感服したといいます。

利休七則(200)

弟子に「茶の湯とは何か」と問われた利休は、のちに「利休七則」と呼ばれる答えを返します。「茶は服のよきように、炭は湯の沸くように、夏は涼しく冬は暖かに、花は野にあるように、刻限は早めに、降らずとも雨の用意、相客に心せよ」これに弟子が、それくらいは分かりますと返すと、利休は「もしそれが十分にできるなら、私はあなたの弟子になりましょう」と答えました。当たり前のことこそ難しく、おろそかにしてはならないとする利休の真摯な姿勢が伝わります。

カリスマ茶人「利休」の誕生

秀吉の関白就任を記念した茶会において親町天皇から「利休」の号を下賜された利休ですが、その後「北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ)」を取り仕切り、名実ともに「天下一の茶人」の立場を不動のものとしました。「北野大茶湯」は、秀吉の権力を示すために開かれた茶会で、農民から身分の高い者まで、身分を問わず茶碗1つで参加でき、参加者には秀吉・利休・その他2人の茶頭が茶をもてなし、1日で1000人近くが参加したといわれています。

切腹

秀吉に命じられ切腹した利休ですが、最期の言動にまで徹底した茶の湯の精神が表れています。秀吉の「切腹せよ」との言葉を伝えに来た使者に、利休は「茶室にて茶の支度ができております」と伝え、茶を点て、もてなした後に切腹したと伝えられています。さらに、切腹前にある人へ宛てた手紙には、「心だに岩木とならばそのままに みやこのうちも住みよかるべし(心さえ岩や木のように感情を殺していれば、都も住みよかったのに)」と書かれていました。「私は心(茶の湯の精神)を偽ることができません、それならば死を選びます。」という心情を、歌にして送ったのです。

HISTORY, PEOPLE