茶器|信楽焼
このサイトでは日本にあるさまざまな陶磁器についてお伝えしていますが、今回はきっと皆さんも一度は目にしたことがある「たぬきの置物」で有名な信楽焼(しがらきやき)をご紹介しましょう。
信楽焼って?
信楽焼は滋賀県信楽町とその周辺で作られている焼き物で、備前焼・常滑焼・瀬戸焼・丹波焼・越前焼とともに日本六古窯に数えられています。
特徴
信楽焼は絵付けなどを施さず、焼き上げの工程で生まれる色をそのまま生かした素朴な作品が多いのが特徴です。
温度や焚き方、土の状態により発色や形が異なり、この世に2つとして同じものがないことから、古くから茶人に愛用されていました。
また、信楽焼は焼成する際に灰に埋まった焼き物の裾部分が黒褐色になります。このことを「焦げ」や「灰かぶり」と呼び、茶陶器においては趣があると珍重されています。
信楽焼のたぬき
信楽焼といえば「たぬきの置物」が有名。
信楽焼の生産地である信楽町には有名な観光地「たぬき村」があり、大小さまざまな1万匹もの信楽たぬきが観光客を出迎えています。たぬきは古くから縁起物とされていたため、江戸時代にはすでに茶道具としてたぬきの焼き物がありましたが、置物が本格的に作られたのは明治時代。
陶芸家の藤原銕造(ふじわらてつぞう)が、ある夜に偶然目にした腹づつみを打つたぬきを再現したいと思って作ったのがきっかけだといわれています。大きな陶器を得意とする信楽焼だからこそ作り上げることができました。
信楽たぬきが一躍有名になったのは昭和26年。
昭和天皇の信楽行幸の際に沿道に並べていた信楽たぬきに天皇が感激し、歌まで詠まれます。この様子が新聞やニュースで大きく報道されたことで瞬く間に日本中で人気を博し、今では「信楽焼=たぬき」といわれるほどになりました。
信楽焼の歴史
遡ること奈良時代。聖武天皇が紫香楽宮という都を造営した際に、瓦を焼いたのが信楽焼の始まりだと伝えられています。
「しがらき」という名称は、この時代に山深く木々が茂っていた場所だったため、「しげる木」から「しがらき」という名がついたという説と、当時は朝鮮から多くの陶工を呼んでおり、山に囲まれた土地を意味する韓国語「シダラ」という言葉からつけられた説があります。
安土桃山時代には茶道具の生産に力を入れ、信楽焼から多くの名品が生まれました。この時生まれた信楽焼のわびさびは現代にもしっかりと受け継がれています。
江戸時代に入ると茶道具以外にも土鍋などの生活用品が作られるようになり、明治時代には信楽焼の火鉢が大流行し、全国生産高の80%以上を占めるようになります。たぬきの置物が生まれ、日本中に広まったのも同じく明治時代。信楽焼は明治時代に大きく発展しました。
その後、昭和に入り電気やガスが広まったことで火鉢の生産は終了したものの、現在にかけてタイルや鉢、たぬきの置物に食器まで幅広く製品を生産しています。
日本六古窯、越前焼
日本には多くの焼き物があり、伝統的工芸品に指定されているものだけで47種類もあります。
そんな中、今回ご紹介するのは日本六古窯のひとつである「越前焼」です。
越前焼って?
越前焼は福井県の嶺北地方西部にある越前町とその周辺で作られている焼き物で、備前焼・常滑焼・瀬戸焼・丹波焼・信楽焼とともに日本六古窯に数えられています。
その歴史は古く、現在までに200以上の窯跡が発見されています。
特徴
越前焼の特徴をご紹介しましょう。
素朴で頑丈な日用品
越前焼の大きな特徴といえばその丈夫さです。
越前焼に使われる土は鉄分を多く含んでいるため、耐熱性に優れており、高温で焼くことができるので土が焼きしめられます。それにより丈夫で水漏れもしにくい器になり、壺やすり鉢・かめ・貯蔵鉢など日用品として使われてきました。
お茶が美味しくなる
越前焼に使われる土には鉄分が多く含まれており、その鉄分がお茶の苦味成分と反応することで、お茶の苦味がほどよく取れてたまろやかな味わいになります。
また、越前焼きは釉薬を使っていないので器の表面に小さな穴が空いているのですが、その穴がお茶の余分な不純物を吸着してくれ、雑味のない美味しいお茶に仕上がります。
遅咲きの名器
今でこそ高く評価されている越前焼ですが、少し前までは注目さえされない焼き物でした。
江戸時代頃から、越前焼は生活に欠かせない庶民の焼き物として日常に溢れかえっており、芸術品や工芸品として認められることも、歴史的価値を見出されることもありませんでした。
転機が訪れたのは1942年。越前焼の古窯跡調査が行われたことをきっかけに日本六古窯に認定され、さらにこれまで幾つかあった名称を「越前焼」に統一したことで、やっと工芸品として注目されるようになったのです。
越前焼の歴史
日の目をみるまでに時間がかかった越前焼ですがその歴史は今から850年前の平安時代まで遡ります。
当時の越前焼は壺・すり鉢・かめなどの日用用品や台所用品を中心に作っていました。
平安時代末期には越前焼の特徴である、釉薬を使わずに高温で焼き上げる「焼き締め陶器」を作り始めます。
室町時代後半になると船を使って北海道から鳥取までの範囲で輸送を始め、これにより越前焼は広く普及し、人々の生活に根付いていきます。
しかし、江戸時代終わりから明治時代に状況は一変。
世間では茶器などの高級な焼き物が流行り、さらに日本全体が近代化され洋風文化も入ってきたことで、素朴な見た目の日用品を作る越前焼の需要は減る一方でした。
それから長い辛抱の期間を乗り越え、1942年に筑前焼の古窯跡調査が行われたことで越前焼の歴史的価値が見出されます。そこからは窯元が増加し、越前には越前焼目当てで多くの観光客も訪れるようになり、越前焼きは見事に復興し今に至ります。
茶器|高取焼
皆さんは、「遠州七窯」という言葉を聞いたことがありますか?
この記事では、遠州七釜のひとつであり、お茶の世界と深く関わる「高取焼」についてご紹介します。
高取焼って?
高取焼は福岡県朝倉群東峰村と福岡市早良区西新町周辺で作られている焼き物で、昔から茶陶作りに尽力しており、茶道の世界においてはなくてはならない存在です。
特徴
綺麗さびという流儀
「綺麗さび」とは千利休の「わび茶」から派生して形成された茶の湯(茶道)の美意識(概念・流儀)で、これは高取焼から生まれ確立されました。
茶道には美しさを表すさまざまな表現がありますが、綺麗さびは「洗練され、垢抜けた美しさ」を意味します。
高取焼は陶器でありながら磁器のように薄くて軽いことが特徴で、きめ細かく繊細な生地、絶妙な調合で作られた釉薬が出す美しい色合いはまさに洗練され、垢抜けた美しい作品です。
遠州七窯の一つ
遠州七窯(えんしゅうなながま)とは、江戸時代の茶人、小堀遠州の好みの茶器を焼いた七つの窯のことで、高取焼はそのうちのひとつに数えられます。
ちなみに高取焼以外は、志戸呂焼(東江)・膳所焼(近江)・朝日焼(山城宇治)・赤膚焼(遠江)・古曽部焼(摂津)・上野焼(豊前)があります。
独自の釉薬
高取焼の魅力といえば、高取釉をはじめとした、こだわりの釉薬から作られる美しい色合いです。
高取焼の釉薬には秘法があるのですが、代々後継のみに渡される釉薬の秘伝書は伝承者のみにしか理解ができない記述になっており、長い歴史の中で今もなおその秘密は守られ続けています。
高取焼の歴史
高取焼は400年の歴史を持ち、生まれたのは安土桃山時代。
この頃は、戦で手柄を立てた武将に恩賞として領地ではなく茶の湯の名器が与えられていた時代。持っている茶碗の名器ひとつでその家の家柄や権力が判断されるほどでした。
そんな中、黒田藩の初代藩主であった黒田長政の名により、朝鮮人陶工の八山らが開窯したのが、現在の高取焼です。
当時の高取焼は藩主のみに献上する御用窯でした。
江戸時代になっても陶器ブームは続き、日用品というよりも名器の生産に力を注ぎます。高取焼も名器を作ることに全力を注ぎ、多くの器を作りながらも、名器以外は全て割り捨てるという徹底ぶりでした。
そしてこの時、試行錯誤の上で完成したのが、今も伝承されている高取焼の釉薬技術と製法です。
あれから400年、現在もなお高取焼は唯一無二の名器を生み出し続けています。
もともとは献上品として茶陶の名器を作っていたので、一部の権力者や茶人しか手にすることができず、一般人にはほとんど出回らないような高級な焼き物でしたが、時代の流れとともに少しずつ一般に流通するようになり、現在では日用食器としても使われています。
伝統的な茶陶から普段使いの日用品まで幅広く作品が作られ、多くの人に愛される食器としてこれからも進化していくことでしょう。
茶器|丹波焼/丹波立杭焼
私たちにとって焼き物は生活の一部であり、詳しくなくても知らず知らずのうちに急須や土鍋、食器などで日本の伝統的な焼き物を使っていたりします。
この記事では数多く存在する焼き物の中から丹波焼(たんばやき)・丹波立杭焼(たんばたちくいやき)をご紹介します。
丹波焼って?
丹波焼・丹波立杭焼(以下丹波焼)は兵庫県篠山市の今田周辺で作られている陶器で、備前焼・常滑焼・瀬戸焼・信楽焼・越前焼とともに日本六古窯に数えられています。
時代とともに作る焼き物が変わる窯元も多い中、丹波焼は開窯してから800年間、一貫して素朴な生活窯品を作り続けています。
特徴
丹波焼の特徴は以下の通りです。
左回転のロクロ
多くの焼き物が右回転のロクロを使っていますが、丹波焼は日本では珍しい左回転のロクロを昔から使っており、その伝統技術は今も受け継がれています。
ほとんどの窯元が少数規模
丹波焼の窯元はほとんどが少数規模で、土作りから仕上げまで一貫して手がけます。
全国各地で修行を積んで戻ってきた作家がそれぞれの経験や技法を生かして作品を作るため、作家の数だけ作風があります。
また丹波焼のほぼ全ては作家が作った焼き物なので生産量が多くないのも特徴です。
世界にひとつしか存在しない色と模様
丹波焼は高温で長時間かけて焼くことで、燃料の松の薪の灰が焼き物に降りかかり、それが焼き物の原料に含まれる鉄分などと溶け合うことで化学反応が起き、独特の模様や色が現れます。
これを「灰被り(はいかぶり)」と呼び、丹波焼独自の色と模様として愛されています。
灰被りは炎の当たり方や強さ、灰のかかり加減で色や模様が変化するため、ひとつとして同じものは存在しません。
丹波焼の歴史
丹波焼はその800年の歴史の中で時代とともに何度も名称が変わっています。
発祥から安土桃山時代
丹波焼の生産地である兵庫県篠山市の今田周辺はこの当時、摂津住吉神社の荘園で「小野原荘」と呼ばれていたことから「小野原焼」と呼ばれていました。
江戸時代
江戸時代になると朝鮮式の登り窯が導入されたことにより、短時間で一度に多くの焼き物を作ることが可能となり一気に生産量が上がります。
この時代は、窯屋の山麗に登り窯が築かれたことから窯屋時代と呼ばれています。そしてこの時代に小野原焼から「丹波焼」に名称が変わります。
丹波焼は茶陶も有名ですが、盛んに茶陶が作られ始めたのはほかの焼き物より少し遅い江戸時代でした。
明治時代から現在
明治時代以降、立杭地区を中心に丹波焼が作られるようになったことから、「立杭焼」と呼ばれるようになりました。
しかしその後、国の伝統的工芸品の指定を受けた際に丹波焼と立杭焼を合わせた「丹波立杭焼」という名称を申請し、これが認められたことで、正式に「丹波立杭焼」となりました。
茶器|萬古焼
萬古焼(ばんこやき)と聞いてピンとくる人は多くないかもしれません。
しかし、お茶が好きなら是非知っておいてほしい焼き物のひとつがこの萬古焼です。
萬古焼って?
萬古焼は三重県四日市市と菰野町を中心に作られている焼き物で、国の伝統的工芸品に指定されています。窯元数は100社以上にのぼり、四日市市の代表的な地場産業です。
萬古焼という呼び名は、江戸時代に陶芸を趣味にしていた大商人が、自分が作った陶芸品がこの先永遠に伝わりますようにと願いを込め、「萬古不易(ばんこふえき)」と彫った印を押したことが始まりとされています。
特徴
萬古焼の代名詞ともいえるのが土鍋と急須です。
萬古焼の土鍋
生産高はなんと国内の8割〜9割を占めており、国内産の土鍋はほとんどが萬古焼といっても過言ではありません。
萬古焼は非常に耐熱性に優れており、直火・ガスレンジ・炭火等に問題なく使用できます。
萬古焼の原料となる陶土に耐熱性の高いリチウム鉱石が40〜50%も含まれているため、そのリチウム鋼鉄の影響で直火でも空焚きでも耐えられる土鍋に仕上がるのです。
最近ではIHに対応した土鍋やモロッコの伝統料理を作るタジン鍋など、高度な技術を必要とする新商品の開発も盛んに行われています。
萬古焼といえば急須
萬古焼は土鍋と同じくらい急須も有名です。
萬古焼の象徴といえば紫泥の急須ですが、最近ではキャラクター柄の急須・出がらしが捨てやすい便利な急須などもあり、幅広い層から人気を集めています。
萬古焼の急須は鉄分を多く含む赤土粘土で作られており、その鉄分がお茶の苦味成分であるタンニンと反応し、適度に苦味が取れたまろやかな味わいになります。
また、萬古焼の急須は釉薬を使いません。
釉薬を使わないことで表面に小さな穴があり、この穴がお茶の余分な不純物を吸着してくれて、雑味のない美味しいお茶が淹れられます。
味だけでなく、使い込むことで手触りや色合いが少しづつ変化し、味わい深い作品へと育っていくことから、今も昔もお茶を嗜む層から絶大な支持を得ています。
萬古焼の歴史
萬古焼の歴史をご紹介します。
萬古焼の急須が誕生した江戸時代
萬古焼は、桑名の豪商であり、茶道に精通した茶人でもあった沼波弄山(ぬなみろうざん)が趣味で作っていた焼き物に「萬古不易(ばんこふえき)」と彫った印を押したことが始まりとされています。
弄山は異国風の斬新な模様や形を取り入れた作品を得意としており、その作品は当時鎖国をしていた日本の知識人や将軍家などの上流階級層から大いに人気を集めました。
弄山の死後、日本の茶文化は抹茶から煎茶へと流れが変わります。
弄山の後継ぎが煎茶に必要な急須をいち早く研究して考案し、萬古焼の急須は国内だけではなく、海外からも高く評価されます。
半磁器の開発で飛躍的に伸びた明治時代
明治時代に入ると国内外のざまざまな博覧会で多くの賞を受賞し、その地位を確固たるものにしました。
この頃、半磁器という磁器土(石)と陶土(土)を合わせた材料で作る焼き物の製造開発を行い、成功します。
これを機に萬古焼の食器の生産は飛躍的に伸びます。
土鍋が日本一になった昭和から現在
昭和後期には耐熱性を向上させる技法が生まれ、土鍋の生産量は日本一になりました。
それから現在まで生産量はどんどん伸び、今では国産土鍋のほとんどが萬古焼です。
また、急須に関しても「萬古焼といえば萬古急須」といわれるほどポピュラーとなっており、どちらも愛用者が増え続けています。
日本六古窯、瀬戸焼
有田焼と美濃焼とならび、日本三大焼き物のひとつに数えられ、焼き物の世界で大きな影響力を持つ瀬戸焼。
今回はそんな瀬戸焼についてご紹介します。
瀬戸焼って?
愛知県の瀬戸市で作られる陶磁器のことを瀬戸焼といい、備前焼・常滑焼・丹波焼・信楽焼・越前焼とともに日本六古窯に数えられています。
瀬戸市の丘陵地帯には、焼き物の原料になる良質の木節粘土・蛙目粘土や、ガラスの原料となる硅砂が豊富に採取できる瀬戸層群と呼ばれる地層があり、これにより常に上質な焼き物が生産されています。
日本では陶磁器全体を指す言葉として「せともの」が使われますが、これは瀬戸焼からきています。このことから瀬戸焼がいかに日本の焼き物に大きな影響を与えてきたかが伺い知れます。
特徴
瀬戸焼は「日本三大焼き物」「日本六古窯」のひとつに数えられる由緒正しき焼き物で、特に茶器に関しては名器がいくつも存在します。
瀬戸は良質な粘土や陶石などの焼き物の原料が豊富にとれるため、その豊富な原料を生かして作品の幅が広いのが特徴。
素朴でざらついた手触りを持つ陶器と白を基調としガラスのような滑らかな手触りを持つ磁器、このどちらも作っており、さらに食器や置物だけでなく建築陶材などにも使われています。
また、現在瀬戸では「赤津焼」と「瀬戸染付焼」の2つが伝統的工芸品に指定されています。
瀬戸焼の歴史
瀬戸焼の歴史は1000年にものぼりますが、その間に一度も途絶えることなく現在まで生産が続けられています。
日本の焼き物の歴史を変えた鎌倉時代
瀬戸焼の起源は古墳時代まで遡りますが、大きな転機を迎えたのは鎌倉時代。
瀬戸焼は日本の焼き物で初めて釉薬を使い始めました。釉薬とは、焼き物の表面に塗ることで耐水性が増す薬のことで、私たちが普段使っている食器の多くには釉薬が使われています。
まさに日本の焼き物の歴史を動かした出来事でした。
この時期から、瀬戸焼の主流は茶陶(茶器)になり、多くの茶人に愛されます。
この頃はまだ陶器しか作られておらず、磁器が作られるようになったのは江戸時代からです。
海外にもその名が轟いた明治時代
明治時代に入ると瀬戸焼の海外輸出が始まります。
良質な瀬戸焼は輸出用の玩具の生産が盛んになり、ウォルトディズニーをはじめとして海外に多くの取引先を持ち成功を収めました。
昭和時代から現在
戦後も順調に成長し続け隆盛期を迎えた瀬戸焼でしたが、バブルがはじけた頃、中国など海外の安い日用品が国内に出回り、瀬戸焼は大きなダメージを受けます。
しかし、貿易の再開と同時に瀬戸焼の食器セットや玩具が盛んに輸出されるようになります。特に玩具の人気は高く、海外で「セトノベル」と呼ばれ、瀬戸焼の代名詞にまでなりました。
そして現在はその素晴らしい品質はそのままに、焼き物に詳しくない人でも気軽に手にとれる素朴で親しみやすい作品も多く作られており、より幅広い世代に愛される焼き物へと進化しています。
茶器|萩焼
日本には様々な焼き物が存在しますが、その中でも特に「お茶」に深く関わりのある萩焼をご紹介しましょう。
萩焼って?
山口県の萩市を中心に生産されている陶器で、伝統的工芸品に指定されています。
茶陶として発展してきた萩焼は、「一楽、二萩、三唐津」と賞されてきました。これは茶人の茶碗の好み、あるいは格付けを表した言葉で、萩焼が昔から高く評価されていることがうかがえます。
特徴
萩焼は使う陶土や生産工程の影響で陶器に無数の細かいヒビが入るのが特徴。
このヒビのことを貫入(かんにゅう)といい、長年使うことでお茶などの成分が貫入に少しづつ染み込み、茶器の色などの趣が変化していきます。この現象は茶人の間で「茶慣れ(ちゃなれ)」や「萩の七化け(はぎのななばけ)」と呼ばれ、使う人により表情が変わる茶碗として重宝されています。
また、萩焼には100を超える窯元がありますが、量産しているところはほぼありません。ほとんどの窯元が小規模で、作家として活動しているため、一点物が多いのも萩焼の特徴です。
茶陶として親しまれることが多い萩焼は、素材そのものを生かした素朴なものが多く、色付けや装飾はほとんど行いません。
その分、陶土の状態やその日の気温や湿度、焼成の過程などによって出る色合いや模様の変化が分かりやすく、様々な模様や色合いの中からお気に入りの一品を見つける時間はファンにとって楽しいひと時です。
他の焼き物に比べて手入れに多少手間がかかりますが、手をかけて少しずつ自分だけの陶器を作り上げていくこの工程こそ、萩焼の魅力であり特徴です。
萩焼の歴史
萩焼の歴史は今から400年前まで遡ります。
萩焼が生まれた江戸時代前期
当時の日本は「やきもの戦争」といわれるほどの茶碗ブームが起きており、大名たちはこぞって朝鮮から陶工を連れて帰ってきていました。
実は萩焼の元祖は日本人ではなく、この時日本に招致された朝鮮人陶工の李兄弟。李兄弟は、大名であり茶人でもあった毛利輝元の元でやきものを作り始め、のちにこれが萩焼となります。
茶陶以外も作り始めた明治時代から昭和時代
明治時代には数々の賞を受賞し、また表千家との結びつきも深くなったことでその地位を確立します。この頃に「一楽、二萩、三唐津」という言葉が生まれました。
しかし当時の日本は不況で、それを乗り越えるため、萩焼はこれまで作っていた茶陶だけではなく、日用品や海外からの観光客用に向けたアクセサリーなどの装飾品も作り始めます。
戦後から現在
戦後は日本の景気が良くなり、萩焼だけでなく窯業界全体が目まぐるしく発展します。
さらに焼き物ブームが起こり、全国に多くの窯ができました。
この頃から萩焼は個人作家の作陶活動が盛んになり、現在は茶陶はもちろんのこと、日本を代表する焼き物として知られるようになりました。
茶器|美濃焼
日本には遥か昔から多くの焼き物が作られています。
今回は、食器類では日本で一番多く使われている焼き物、美濃焼についてご紹介します。
美濃焼って?
美濃焼は岐阜県の東濃地方にある多治見市・土岐市・瑞浪市を中心に生産される陶磁器のこと。
日本で生産される食器類の60%以上が美濃焼なので、家庭の台所には必ずといっていいほど美濃焼があります。
特徴
そんな美濃焼の一番の特徴は「特徴がないこと」です。
美濃焼はほかの焼き物ブランドと違い、独自の生産方法や決まりごとなどを持っていません。美濃で焼かれた陶磁器のことを「美濃焼」と呼んでいます。
極端にいうと、どのような材料や生産方法を用いても、どのような絵付けをしても美濃焼となります。ですので「美濃焼独自の特徴」は存在しません。
数多く存在する美濃焼の中でも特に有名なのが「桃山風」といわれる焼き物です。
桃山風焼き物には、大正時代にでき焼き物の染付けを初めて施した「志野(しの)」、千利休の弟子だった渡部が好んだことからその名がついた「織部(おりべ)」、古来より茶人に重宝され、茶器が有名な「黄瀬戸(きぜと)」、高台が低く安定感がある茶碗が有名な「瀬戸黒(せとぐろ)」などがあります。
それぞれ特徴は違いますが、これらも美濃で作られていることから美濃焼です。
決まりごとがないからといって他の焼き物より質が落ちることはなく、美濃焼には伝統工芸品に指定されているものが15種類もあり、時代や流行りを柔軟に取り入れ、日常使いを意識した使い心地の良い作品は高い評価を得ています。
美濃焼の歴史
美濃焼は1500年の歴史を持ちます。
須恵器が生まれた古墳時代から平安時代
美濃焼は、古墳時代に作られていた「須恵器(すえき)」が各地に広がり変化しながら生まれた焼き物のひとつです。
平安時代になると中国の陶器に似た灰釉を施した陶器が作られるようになり、その陶器が上級階級を中心に人気を集め、食器などが全国に流通しました。
美濃焼の茶器が一世を風靡した安土桃山時代から江戸時代
茶道が盛んだった安土桃山時代に、美濃焼の代表格である「志野」・「黄瀬戸」・「瀬戸黒」が生まれます。
美濃焼は織田信長の保護のもと歴史に残る数々の名陶器を残し、あの千利休や古田織部にも愛用されていました。
幻の磁器が生まれた明治時代
明治時代になると美濃焼の優れた陶工たちが海外からも高い評価を受けるようになり、美濃焼の輸出が広がります。
またこの時代、美濃焼は磁器の生産に力を注ぎ、繊細な染付吹き絵が描かれた絵画のような磁器が生まれました。これがのちに幻の磁器と呼ばれる「西浦焼」です。
西浦焼は国内だけでなく、パリ万博でも賞を受賞するなど世界から高く評価されますが、後継者問題などにより閉鎖されてしまいました。
そこから現在にかけて、生産業者や工場がどんどん増え、今では陶器の生産量1位、国内の食器シェア率60%にまで上り詰めました。
日本六古窯、備前焼
皆さんは「焼き物」と聞いてどんなものを思い浮かべますか?
美術品のような細かい絵付けがしてあるもの、赤や金で豪華に塗られたもの、ツヤと光沢が美しいものなど様々な焼き物がありますが、そんな中、絵付けをせず土の質感をそのまま生かした素朴な焼き物があるのをご存知でしょうか?
備前焼って?
備前焼は岡山県備前市で作られている陶器です。常滑焼・瀬戸焼・丹波焼・信楽焼・越前焼とともに日本六古窯に数えられており、その歴史はなんと1000年以上。
現代に残る日本の焼き物の中でも特に歴史深い備前焼についてご紹介します。
特徴
備前焼はその独特の作り方から生まれる特徴を持ちます。
素朴な見た目
備前焼は絵付けもせず、釉薬も使わずにそのまま焼くので素材である土の持ち味を楽しめる素朴な焼き物です。
色彩の鮮やかさや豪華な文様はありませんが、土の状態・その日の気温や湿度・使う炭や灰などの条件により形や焼き色がひとつひとつ異なるので、同じものはこの世に二つとありません。
決して派手な焼き物ではありませんが、自然に浮き出た素材の織りなす色合いは見れば見るほど味わい深く、長年使っても飽きがきません。
強度が高く丈夫
備前焼は約2週間かけて1200度〜1300度の高温で焼き締めるため強度が高く、「投げても割れない」といわれるほど。
なので強度が必要なすり鉢・壺・水をためる大きなカメなどが多く作られています。
お茶が美味しくなる
釉薬を使っていないため、焼き物の表面に小さな穴が空いており、その穴がお茶の余分な不純物を吸着してくれることで、雑味のない美味しいお茶に仕上がります。
また、備前焼は鉄分の多い土を高温で焼くことから高い遠赤外線効果があり、水そのものが美味しくなるといわれています。
花が長持ちする
表面にある小さな穴に空気が入ることで通気性が良くなり、備前焼の花瓶に生けた切り花は長持ちするとして重宝されています。
備前焼の歴史
1000年以上の歴史を持つ備前焼の歴史は平安時代まで遡ります。
備前焼が誕生した平安時代
備前焼は古墳時代に朝鮮から伝えられ生産されていた須恵器(すえき)が変化してできたものです。須恵器は今の備前焼のように強度が高く割れにくかったため、平安時代末期頃には丈夫な日用品として庶民から人気を集めていました。
その後、須恵器は日本各地で発展していきます。そのうちのひとつが備前焼です。
鎌倉時代から次第に、現在の備前焼に近い見た目に変化していきます。
侘び茶とともに隆盛期を迎えた室町時代
侘び茶(現在の茶道)が発展した時代。素朴な備前焼は茶道の心得に通ずるとして人気を博します。
それから安土桃山時代中期にかけて、茶道の発展とともに備前焼も隆盛期を迎えます
危機を迎えた江戸時代から明治時代
茶道界での茶器の流行りが変わったこと、華やかな陶磁器が作られるようになったことで備前焼の人気は一気に落ちてしまいます。
明治時代に入っても備前焼は衰退する一方でした。
復活を遂げた昭和時代から現在
一時は衰退の一途を辿った備前焼ですが、金重陶陽(かねしげとうよう)が人間国宝に選ばれたこと、備前焼が国の伝統工芸品に指定されたことで人気が再燃します。
それからは国内だけでなく海外でもその奥ゆかしい純日本的な素朴な作品が評価され今も高い人気を誇っています。
茶器|九谷焼
焼き物に詳しくない人でも一度は聞いたことがあるであろう九谷焼(くたにやき)。
絢爛豪華な大胆な色合いと絵付けは一度見たら忘れられません。
九谷焼って?
九谷焼は石川県の金沢市・加賀市・美濃市・小松市で生産されている陶磁器で、色鮮やかな茶器も有名です。
宮内庁が海外の著名人や皇族への贈答品としてこの九谷焼を使っており、イギリスのチャールズ皇太子の結婚祝いとしても献上されました。
だからといって決して一般的に手が届かないものではなく、美術品から日用品まで幅広い種類・価格があります。
特徴
九谷焼は幾つかの特徴がありますが特に有名なのが以下です。
陶器と磁器、2つの素材
一般的に陶磁器の多くは陶土(粘土)で作る「陶器」か陶石(石の一種)で作る「磁器」のどちらかに分類されますが、九谷焼には「陶器」と「磁器」の2種類があります。
厚みがありぽってりした温かみのある陶器と、薄くて軽い磁器。見た目も性質も用途も異なり、それぞれに良さがあります。
美しい上絵付け
九谷焼は「上絵付けを語らずして九谷はない」といわれるほど日本を代表する色絵陶磁器。
上絵付けとは、本焼きした後に顔料で絵をつけ、約800度の高温で焼きなおす技法のこと。焼きなおすことで作品に唯一無二の味のある模様がつきます。
また、九谷焼の上絵付けは「赤、黄、紫、緑、紺青」の色彩を使うことから五彩手と呼ばれ、その豪華爛漫な出で立ちは大切の人へのプレゼントや祝いの場に相応しい気品をまとっています。
九谷焼の歴史
九谷焼は時代ごとに名称や特徴が異なりますが、その始まりは今から360年以上前の江戸時代といわれています。
突如姿を消した江戸時代前期
九谷焼は1665年にはその存在が確認されており、有田で陶芸を学んだ後藤才治郎が九谷村で窯を構えたのが始まりとされています。
その後、色鮮やかな九谷焼は数々の名作を生み出し、瞬く間に話題となりますが、生まれてからたった数十年後に九谷焼は突如としてこの世から姿を消し、その原因は今でも謎のままです。
復活を遂げた江戸時代後期
九谷焼が廃窯して100年後、九谷焼発祥の地である大聖寺の大商人である吉田屋伝右衛門が中心となり九谷焼が復興します。
この時代に作られた九谷焼を「再興九谷」と呼びます。
世界に認知された明治時代
1973年、ウィーン万博に出品したことで、九谷焼は「ジャパンクタニ」という名称で一気に世界に広まります。
その後は色絵付け師として名高い九谷庄三(くたにしょうざ)が中心となり生産された鮮やかな赤絵の九谷焼は大量に海外へと輸出されました。
人間国宝が生まれた昭和時代から現在
昭和時代後期になると、その美しさから美術品として製作されるようになります。
伝統を重んじる九谷焼ですが、その時代に合わせて様々なデザインが柔軟に生み出されてきました。
1997年には、グラデーションの絵付けを完成させた三代目徳田八十吉(とくだやそきち)が、2001年には金箔の飾り付けなどを極めた吉田美統(よしだみのり)が人間国宝に認定されます。
そして現在も伝統を重んじながらも時代に合わせた新しいデザインや技法を取り入れ、日々進化し続けています。
茶器|益子焼
「焼き物」と聞くと難しいイメージや、飾り物・眺めるものというイメージを持つ人は少なくないでしょう。
今回はそんな焼き物が持つイメージを覆す、益子焼をご紹介します。
益子焼って?
益子焼は栃木県益子町で作られている焼き物で、国の伝統的工芸品に指定されています。
1966年から開催されている益子陶器市は毎年約60万人が集まるほどの人気ぶり。
人気の理由はその特徴にあります。
特徴
益子焼は他の焼き物とは少し趣が異なります。
多種多様を受け入れる
益子焼は伝統を引き継ぎたい人を拒まない風潮があります。
なので国内外問わず多くの陶芸家が集まり、陶芸家それぞれが益子焼の伝統に自身のデザインを融合させるのでデザインの幅も広く、特に最近はテーブルをお洒落にデコレーションしてくれるような作品が目立つのが特徴。
茶器ももちろんありますが日本茶用の湯のみや急須だけではなく、紅茶用のティーセットもあります。
ぽってりとしたフォルム
益子焼に使われている陶土が気泡を多く含むため、細かい細工には向かず厚手になってしまうことから益子焼はぽってりとした愛らしい形をしています。
また砂気が多いので、見た目にもさわり心地にも素朴な味わいがあります。
シーンを選ばない
日常使い用に作られている益子焼は、どんな料理にもテーブルにも合います。
益子焼きはれっきとした和食器ですが、シンプルながら流行りを取り入れたデザインは若い世代からも人気を集め、カフェなどでもよく使われています。
益子焼の歴史
益子焼はほかの焼き物と比べるとその歴史は浅く、始まりは江戸時代。ですが、現在に至るまで度々時代に翻弄され、一時は製造が中止になりながらも幾度となく危機を乗り越えてきました。
藩の援助のもと栄えた江戸時代
1853年に陶芸家の大塚啓三郎(おおつかけいさぶろう)が益子に窯を構えたのが益子焼きの始まりだといわれています。
この頃益子を統治していた黒羽藩は益子焼を援助し、あっという間に益子焼は江戸まで普及するようになりました。
何度も危機を迎えた明治時代
1871年、藩からの支援はなくなりましたが、その後も益子焼は順調に日本各地に広がります。
しかしその後、海外輸出を始めると生産が追いつかなくなり、粗悪品が目立ち信用を失ってしまいます。
その後、窯元の努力もあり、再び盛況を取り戻したものの、国内でアルミニウムなどの金属製の食器や調理器具が主流になり、益子焼きは一時製造が中止になるほど追い込まれます。
民芸運動で盛り上がった大正時代〜現在
「民芸の美しさは日常生活における人との触れ合いの中に生まれる。美というものを意識したわけではなく作り出されたものの中にこそ美しさがある」と、これまでの民芸になかった概念を見出して新しい価値や美しさを広めるために民芸運動が行われました。
この民芸運動の拠点のひとつが益子だったため、益子に多くの陶芸家が訪れるようになり、益子焼を作陶するようになりました。
そして現在、約250もの窯元があり、様々な陶芸家が多種多様な作品を作っています。
日本六古窯、常滑焼
日本には昔からさまざまな焼き物がありますが、「常滑焼(とこなめやき)」をご存知でしょうか?
名前は聞いたことがなくても、もしかしたらすでにお持ちかもしれません。それほど日本全国に広く浸透している焼き物です。
この記事では、お茶が好きなら是非知ってほしい常滑焼について詳しくご紹介します。
常滑焼って?
常滑焼は愛知県の知多半島の西海岸、伊勢湾に面した常滑市とその周辺で古くから作られている焼き物で、備前焼・瀬戸焼・丹波焼・信楽焼・越前焼とともに日本六古窯に数えられています。
全盛期には人口5万5000人ほどの常滑市で、6人に1人が焼き物産業に携わり、400以上の事業所があったそうです。
常滑焼といえば急須が有名。常滑焼の急須は無形文化財に指定されており、それに伴い急須の技術保持者だった故三代目山田常山氏は人間国宝に認定されました。
今ではインターネットで「常滑焼」と入れると一緒に「急須」と出てくるほどで、急須は常滑焼の代名詞なのです。
特徴
常滑焼といえば朱色の焼き物。常滑焼の朱色は原料に酸化鉄を多く含む朱泥(しゅでい)という土を使うことで出る色合いで、この色から「赤物」と呼ばれて流通していた時代もありました。
また常滑絵焼は釉薬という、焼き物の表面にツヤを出すための薬をかけずに作られるのも特徴です。
ただ最近は、あえて釉薬をかけ朱色以外の色を出した焼き物も作られています。
常滑焼の急須
常滑焼の急須はとても有名で日本一のシェアを誇ります。その大きな理由は「常滑焼の急須で淹れたお茶は美味しくなるから」です。
陶土の朱泥
先述の通り、常滑焼に使われる朱泥には酸化鉄が豊富に含まれています。その酸化鉄がお茶の苦味成分であるタンニンと反応し、苦味がほどよく取れたまろやかな味わいになります。
釉薬を使っていない
常滑焼は表面に小さな穴が空いている多孔質という性質を持っているので、釉薬を使わないことで小さな穴がお茶の余分な不純物を吸着してくれ、雑味のない美味しいお茶に仕上がります。
セラメッシュの茶こし
常滑焼は、急須と茶こしが一体になっています。
金属製の茶こしと違い、セラメッシュという繊細な陶製の茶こしを使うことで、茶葉のつまりを防ぎ、最後の一滴までお茶を注ぐことができます。
また、金属の雑味が混ざらないのでお茶本来の味を邪魔しません。
常滑焼の歴史
常滑焼は日本六古窯の中でも特に長い歴史を持ち、その始まりは平安時代まで遡ります。
平安時代末期から知多半島の良質な土を使って茶碗などが焼かれ始め、それに伴い多くの穴窯が作られました。その数は多い時でなんと3000基もあったそうです。
鎌倉時代になると、海路を使って日本各地に広まりました。
その後、江戸時代後期から明治時代にかけて、ヨーロッパや中国など海外焼き物の技法を積極的に取り入れ、飛躍的に生産量が伸びます。そのタイミングで茶碗などの食器類だけでなく煉瓦タイルなどの生産も始めました。
それから現在にかけて、技術は日々進歩し、種類や品質も伸び続けています。