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鎌倉時代は、私たちがよく知る「抹茶」がよく飲まれるようになった時代です。
ここでは、鎌倉時代におけるお茶作りの普及や、南北朝時代の「闘茶」という文化などについてご紹介していきます。
お茶作りの始まり
一般的には、禅僧である栄西(1141〜1215)が中国から茶の種子を持ち帰り、福岡県の背振山に植えたのがお茶作りの起源であると言われてきました。
しかし、実際の史料を見ると、すでに平安時代には嵯峨天皇が茶の栽培を各地で行わせていたことがわかっています。
京都や東国へのお茶の普及
上述した通り、栄西は日本ではじめて茶を栽培した人物ではありません。 しかし、「京都や東国にお茶を広める」という重要な役割を担った人物でした。
栄西は京都に建仁寺を建立して住職となりましたが、その際に明恵上人という僧侶に茶を贈ります。 そして、明恵上人はそれを梅尾高山寺の境内に植えて栽培し、宇治にその種子を撒きました。 これが「宇治茶」のはじまりだと言われています。
また、栄西は鎌倉の寿福寺の住職も勤めましたが、それがきっかけでお茶が東国に広まっていったと言います。
『喫茶養生記』って?
栄西の残したもうひとつの大きな功績は、『喫茶養生記』という日本ではじめての茶書を執筆したことです。
『喫茶養生記』は元々医学書として書かれたもので、お茶の薬効や茶の栽培方法、喫茶の方法などについてまとめられた書物です。
歴史書である『吾妻鏡』によると、鎌倉幕府の3代将軍源実朝が二日酔いで苦しんだとき、お茶とともにこの本が献上されたと伝えられています。
碾茶って?
奈良・平安時代に主に飲まれていたのは固形茶である「餅茶(団茶)」でしたが、鎌倉時代には「碾茶」が主流となりました。
碾茶というのは、簡単にいえば抹茶の原料になるお茶のこと。 抹茶は碾茶を臼などで挽いて細かい粉末状にしたものです。
当時の抹茶は、禅僧が修行中にくる睡魔を撃退し、精神を集中するために用いていました。
鎌倉時代のお茶・闘茶について
鎌倉時代には、武士や貴族なども社交の席としてのお茶を楽しむようになります。 その場では、客人をもてなすために中国から伝来した絵画や花瓶などを飾り、唐の茶器を使ってお茶を淹れました。
1320年ごろになると、社交の場でお茶を飲む習慣は遊戯性を増していき、お茶を飲んで産地を当てる「闘茶」へと発展します。
当初の闘茶は、明恵上人を始祖とする「本茶」を当てるという単純なものでした。
しかし南北朝時代に入ると、徐々に酒食を持ち込んだり賭け事を行ったりする過激なものへと変わっていきます。最終的に、過激さを増した闘茶は、足利尊氏の出した「建武式目」という法律によって禁止されてしまいました。