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日本の茶の湯文化が花開くのは、室町〜安土桃山時代。 村田珠光や武野紹鴎、千利休といった茶人たちの活躍によって現代の茶道の基盤が形作られることになりました。
ここでは、そんな彼らの功績や、侘び茶の概要などについてご紹介していきます。
「茶の湯」の大成
「茶の湯」は、客を招いてお茶の席でもてなすことを指します。
現代では「茶道」と呼ばれることが一般的ですが、茶道というのは江戸時代に芸道を指す言葉として使われるようになったもので、室町時代や安土桃山時代では「茶の湯」という呼び方が主流でした。
そんな茶の湯を大成した人物としては、村田珠光・武野紹鴎・千利休が挙げられます。
ここでは、そんな3人の功績を簡単に振り返っていきましょう。
村田珠光
村田珠光(1423〜1502)は、室町時代の茶人です。
もともと珠光は寺の徒弟でしたが、修行に身が入らず、京都にのぼって茶の湯をはじめました。
珠光の功績としては、茶道具や茶室に飾る絵画や墨跡にとことんこだわり抜き、厳選した名物を四畳半の座敷に飾るという独特のスタイルを生み出したことが挙げられます。
彼は「藁屋に名馬をつなぎたるがよし(粗末な空間に良い茶器があるのがよい)」と述べていますが、素朴さや簡素さを愛する茶の湯の基盤がここで形成されたと言えるでしょう。
武野紹鴎
武野紹鴎(1502〜1555)も、村田珠光と同じく室町時代の茶人。
武野紹鴎はもともと有力な堺の町衆でしたが、27歳の時に三条西実隆という貴族から和歌や連歌などを学びます。 その後、出家してさらに連歌を極めるつもりでしたが、当時新しい芸術として芽吹きつつあった茶の湯に目をつけ、珠光の門人たちから教えを受けることになりました。
武野紹鴎の残した功績は、茶室に飾る道具を中国のものに限定せず、南蛮からの渡来品や日本で作られたものなどを自由に飾るようにしたことです。
伝統に固執することをやめ、茶の湯にさらなる創造性を加えたという点で彼の功績は非常に意義深いものだったと言えるでしょう。
千利休
千利休(1522〜91)は、室町〜安土桃山時代の茶人で、一般的に「茶の湯の大成者」として知られています。
彼は10代の頃から茶の湯をはじめ、40代の頃には友人の紹介で織田信長に仕えることになります。 織田信長の死後は天下人となった豊臣秀吉に仕えることになりますが、最終的には切腹に追い込まれて非業の死を遂げました。
ここまで村田珠光や武野紹鴎が茶の湯の基盤を作ってきたことはすでに述べた通りですが、千利休の茶の湯はさらにそれらを洗練したものでした。
彼の茶の湯のスタイルを一言で言い表すとするなら、「究極の簡素美」です。
千利休は、元々四畳半だった茶室をさらに狭くし、きらびやかな装飾を徹底的に排除していきました。 その結果、現代でも親しまれているような、簡素さを良しとする茶の湯の精神が大成されたのです。
「侘び茶」って何?
千利休はしばしば「侘び茶の大成者」とも称されます。
侘び茶とは、辞書的に言うと「わびの境地を重んずる茶の湯のこと」(『日本国語大辞典(第2版)』)を指します。
侘びの精神を一言で説明するのは難しいのですが、簡単に言うと「不完全さや簡素さを謳歌する精神」ということになるでしょう。
たとえば、千利休は茶室から余分なものや贅沢なものを極限まで排除し、一見するとみすぼらしく見えるような茶器を用いて茶事を行いました。
あらゆるものへの執着を捨て、簡素なものの中に真の美しさを見出す。その境地に至ることを目的としたのが、「侘び茶」と言えるでしょう。
宇治茶の振興
千利休が好んで用いたお茶に「宇治茶」があります。
元々宇治茶は、明恵上人という僧侶が宇治にお茶の種を撒いたのが発祥であると言われていますが、16世紀後半になると宇治で「覆い下栽培」という新しい栽培法が開発されます。 覆い下栽培によって作られたお茶は、鮮やかな濃緑色で、強い旨味を持つのが特徴でした。
千利休はそのような宇治茶を好み、最良のお茶として位置付けたのです。
なお、当時飲まれていたのは現代のような煎茶でなく、茶葉を揉まずに乾燥させた碾茶や、それを挽いて粉末状に加工した抹茶でした。