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世界有数のお茶の生産地であるインド。しかしその歴史はイギリスの植民地政策を背景にして築かれたものでした。
ここでは、そんなインドのお茶の歴史をご紹介していきます。
インドのお茶の歴史
インドといえば、ダージリンやアッサムといった、世界有数の紅茶の原産地として有名です。ここでは、そんなインドにおけるお茶の歴史を時系列順にご紹介していきます。
東インド会社の貿易独占とアヘン戦争
インドにおけるお茶の歴史を理解するためには、まず当時のイギリスの状況について触れておく必要があります。
17世紀ごろ、オランダ人がヨーロッパにお茶をもたらして以来、イギリスでは手軽に楽しめる嗜好品としてお茶が一大ブームを巻き起こしていました。当時のイギリスでは、宮廷の貴族から一般庶民まで、幅広い層の人々の間でお茶が楽しまれていたようです。
その人気ぶりは、お茶が原因となって2度も戦争が起こったほど。
1度目は、オランダが中国茶の交易権を独占していたことに対する反発から起こった、「英蘭戦争」。
これに勝利したイギリス東インド会社は、中国からお茶を輸入する独占交易権を手に入れます。
ただし、その後もイギリス国内での茶の需要は急増し、お茶を輸入していた中国との間に著しい貿易の不均衡が生じます。そして、それがきっかけとなって「アヘン戦争」が引き起こされることになりました。
もはや中国からの輸入のみで茶の需要をまかなうことに限界を感じたイギリスは、自国の植民地であるインドでお茶の栽培を行うことを決意します。
アッサム種の発見とプランテーション農業の展開
イギリスがインドにおけるお茶の栽培に踏み切ることができた理由は、19世紀にインドで「アッサム種」という新しいお茶の品種が発見されたことでした。
イギリスはそれまでにも中国産のお茶をインドに移植することを試みていたのですが、中国種はインドの気候と合わず、挫折を繰り返していたのです。
そのような中、インドの気候に適したアッサム種が発見されたことにより、各地で大規模なプランテーション農業が展開されていくことになりました。また、お茶の栽培がインドで進んでいくにつれて、1841年にはダージリン地方で中国種が育つことが発見されます。2つの種類のお茶を生産できるようになったインドはその輸出量を急激に伸ばし、紅茶大国として名を馳せるようになっていきました。
現代でも有名な紅茶の銘柄である「アッサム」や「ダージリン」は、このようなイギリスの植民地支配を背景として誕生したものだったのです。
チャイ発祥の地
イギリスの植民地政策によって世界有数の紅茶生産国となったインドでしたが、良質な紅茶はあくまで「輸出用」の商品であり、インドの人々が口にすることはできませんでした。
そこでインドの人々の間で常飲されるようになったのが「チャイ」です。
チャイは、元々お茶の葉のカスを原料として作られていたものですが、お茶の葉のカスはそのまま淹れると苦味が強く、飲むことができません。そこで、インドの人々はそのお茶の葉のカスから挿れたお茶に、砂糖やミルクを混ぜ合わせることで味を整えて飲んでいました。
こうして生まれたチャイは次第にインド人の間で人気を博し、国民的な飲み物となっていったのです。
現代では、チャイはスターバックスコーヒーのメニューなどにも取り入れられ、インドのみならず世界中で愛される飲み物となっています。