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「茶聖・大谷嘉兵衛」。その功績は、茶業界だけにとどまらず多岐にわたります。時には私財さえ投げ出し、茶業界のため日本のために尽力した大谷嘉兵衛の一生を詳しくご紹介します。
世界を舞台に活躍した明治の大実業家「大谷嘉兵衛」の生涯
誕生~青年期
大谷 嘉兵衛は、1845年伊勢国(現・三重県松阪市)に生まれました。
19歳の嘉兵衛は、近隣出身の小倉籐兵衛が横浜で営む製茶貿易商「伊勢屋」に奉公します。働きぶりが認められ伊勢屋の養子となるも、養父と折合いが合わず離縁。
その後スミス・ベーカー商会の製茶買入方として働き、海外取引責任者となりました。
青年期~熟年期
23歳で幼名の藤吉から嘉兵衛へと改名。スミス・ベーカー商会に勤めながら、横浜に自身の会社「巴屋」を開業、業績を伸ばし茶業界への影響力を付けていきます。
自身の商売だけではなく、輸出急増に伴い茶の品質低下が問題となると、茶の品質向上に尽力。農商務省と協力し全国の茶業を統括する中央茶業本部を設立。政治の世界でも活躍し、茶業界や貿易業界の要職を歴任しました。
熟年期~晩年
49歳で「日本製茶株式会社」を設立。外人商館を通さず直接の輸出取引を始めます。
その後、政府の補助を受け、海外に出張所を開設。同年に横浜商業会議所会頭に就任。1899年に開催されたフィラデルフィア万国商業大会では、日本代表としてアメリカ合衆国大統領と面会し、お茶の関税撤廃を陳情、「太平洋海底ケーブル」の敷設を提案しました。
晩年まで政財界での活躍は続き、1933年90歳の天寿を全うします。
大谷嘉兵衛の功績
「茶聖」と呼ばれた男
先見の明を持つ19歳
嘉兵衛が13歳になる頃、日米修好通商条約が結ばれます。
日本の緑茶は外国人の好みに合い、輸出額は年々増加。生糸に次ぐ輸出商品の花形に成長します。茶の産地伊勢で育った嘉兵衛は、その将来性を肌で感じながら成長したのです。
19歳になった嘉兵衛は、隣村の出身者が横浜で営む製茶貿易商「伊勢屋」に奉公します。10代にして「茶の将来性」を確信し、茶業に携わることを決めた嘉兵衛にはの「先見の明」がありました。
大勝負に出た23歳
急激な需要増で品薄となった茶の買い付けを命ぜられ、嘉兵衛は大阪へ向かいます。見本を見るだけで大胆に買入れを続け約4トンもの茶を購入、使った金額は26万両(104億円/1両を4万円で計算)といわれています。
当時は全て現金による取引のため、拠点とした旅館の玄関に大きな金庫を据えての商売でした。珍しい光景を見ようと、山のような見物人が押し寄せたといいます。
この功績により多額の報酬を得た嘉兵衛は、スミス・ベーカー商会で働きながら、横浜に製茶売り込み業の「巴屋」を開業。嘉兵衛の商売人としての豪胆さがよく分かるエピソードです。
生涯止まらない活躍
嘉兵衛は、故郷伊勢の茶業・教育・架橋に多大な貢献をします。嘉兵衛の力によって伊勢茶の多くが海外に輸出され、地元経済を潤しました。
さらに、嘉兵衛の活躍は晩年になってもとどまることを知りません。
日本貿易協会の会頭、複数の銀行の頭取などを務め台湾鉄道・南満州鉄道・韓国銀行・常磐生命・川俣電気会社などの設立に関与。銀製黄綬褒章をはじめ、勲五等瑞宝章、勲三等瑞宝章、紺綬章、ベルギーよりレオポルド1世勲章を授かっています。
活躍の多様さや受章の多さからも、嘉兵衛の活躍ぶりを知ることが出来ます。
国際的な貢献
1899年にフィラデルフィアで開かれた万国商業大会に日本代表として参加した嘉兵衛は、前年から実施された日本茶に対する高い課税撤廃をアメリカ大統領に直訴。その結果、関税が廃止され茶の輸出は再び増加しました。
さらに、日本の茶業界が世界で戦うには、迅速に海外の状況を知る情報伝達手段が必要だとして、太平洋海底へのケーブル敷設を提案しインフラ整備に貢献したのです。
新しい取組みへの理解
嘉兵衛が茶業中央会議所会頭を務めた当時、一人の茶農家が周囲の理解を得られないまま「茶の品種改良」に取組み苦しんでいました。「茶の品種改良」の必要性を理解した嘉兵衛は、私財を投じて土地を購入し試験地として提供、品種改良事業を激励しました。
その茶農家が、現在も日本の茶生産量の70%以上を占める品種「やぶきた」の生みの親「杉山彦三郎」です。誰も理解を示さなかった「茶の品種改良」に、私財を投じて貢献した嘉兵衛は「やぶきた」のもう一人の生みの親ともいえます。
世界を舞台に活躍した明治の大実業家「茶聖・大谷嘉兵衛」を知ると、一杯のお茶から胸躍るロマンを感じられるのではないでしょうか。