July 31, 2020
お茶にまつわる人物|杉山彦三郎

生涯を通じ茶の木の品種改良を追求した情熱の人。地元静岡では、没した後も「彦三郎翁」と呼ばれ敬われる「やぶきた」生みの親、杉山彦三郎について解説します。

杉山彦三郎とは

杉山彦三郎(すぎやまひこさぶろう)は、安政4年(1857)安倍郡有度村(現・静岡市)に生まれました。父の営む造り酒屋と漢方医の後継は弟に譲り、彦三郎は農業の道に進みます。

ちょうど彦三郎が生まれた頃、日本はアメリカと修好通商条約を締結し、お茶は生糸に次ぐ輸出品となり、花形産業へと発展します。そんな時代に杉山彦三郎が始めたお茶栽培は、師を持たず体験から学びながらのものでした。

急速な発展のため、玉石混交の茶業界で粗悪な商品を取り締まる茶業組合の幹事を勤めますが「自分自身が優良なお茶を産出できないことを恥じている」という述懐から誠実な人柄がうかがえます。

苦労を重ねて品種改良に成功し、「やぶきた」を生み出したものの、その隆盛を見ることなく昭和16年(1941)に83歳で亡くなりました。現在では、静岡市内に胸像碑が建てられ、「やぶきた」の原木は静岡県の天然記念物に指定されるなど、その功績が認められています。また茶業功労者への表彰を行う「杉山彦三郎賞」も存在します。

日本のお茶を変えた杉山彦三郎の功績

「品種改良」の始まり

自ら山野を切り開き茶園を造成し、ほぼ独学でお茶栽培を始めた彦三郎は勧農局(農業振興を掌じる内務省の内局)の役人などからお茶作りを学び、遠縁の茶師・山田文助から製茶を学びました。「良いお茶を作るためには、まず良い茶葉が必要」とする茶師・山田文助に付いてお茶を観察するうちに、「お茶の成長には早いものと遅いものがある」「品種により茶葉の良し悪しに差がある」ということに気づきます。これらは今でこそ当然のことですが、当時は一つの茶園にさまざまな品種が混在し、収穫する茶葉の品質にバラツキがあることが当り前でした。そんな状況の中で、この気づきは大きな発見であり品種改良への第一歩だったのです。

「やぶきた」の開発

良質のお茶を安定して生み出すためには、優良な茶の木が必要だと確信した彦三郎は、品種改良に力を入れます。しかしそれは学問的知識が無いままに、ひたすら試行錯誤を繰り返す作業でした。今でこそ、彦三郎のしたことは「品種改良」と認識されますが、当時は人々に理解してもらえず、変わり者扱いされる始末。それでも、35歳頃から次々と新品種を開発していきます。そんな中、良い茶の木を選び出し藪の北側に植えたものを「やぶきた」南に植えたものを「やぶみなみ」と命名し栽培を始めます。すると「やぶきた」は病気に強く育てやすい上、バランスの良い味の茶葉を付けることが判明。「やぶきた」は発表後に品質を認められはしたものの、戦争を挟んだため彦三郎の死後14年を経てようやく日本中に広まったのです。

地元の茶業振興に尽力する

杉山彦三郎の功績は、品種改良だけにとどまりません。

50代になり、ようやく「茶業中央会議所会頭の大谷嘉兵衛」という支援者を得て、試験地での品種改良事業に取り組みましたが、大谷氏が会頭の座を退くと茶業中央会議所から引き続きの援助は得られず、試験地を返上という窮地に立たされます。

しかし、77歳の彦三郎はこの窮地に屈しませんでした。自ら購入した茶園で研究を続け、近隣の青年達に協力を要請し、自ら培った品種改良の知識や経験を後生に引き継ぐことに尽力します。また、近隣の農家にも惜しみなく知識を伝え、新しく機械が開発されればそれを導入していち早く製茶業の機械化を図り、地元の川の改修・茶園周辺の整備など郷土の茶業振興のために尽くしたのです。没してなお「彦三郎翁」と地元で慕われ敬われる理由はここにあります。

彦三郎が生涯を通じて追求した「品種改良」の行程について詳しく解説した記事がこちらです。

杉山彦三郎の情熱を物語る3つのエピソード

「イタチ」と呼ばれた男

良い茶の木を見つけるために、彦三郎は昼夜を問わず茶畑をうろつき、時には人の畑にまで入ったといわれています。地面を這いつくばって茶畑を動き回る姿から「イタチ」と嘲笑されても、理想の茶の木を探すことを止めませんでした。「この木こそは!」と思う茶の木を見つけると、その茶葉を生のまま噛み吟味していたため、前歯が欠けていたという逸話も残っています。持てる情熱を全て傾けて、理想の品種を追い求めたのです。

お茶のためならどこへでも

彦三朗の「良いお茶を見つけたい」という情熱は、とどまるところを知らず彼を動かしました。交通手段が発達していない時代に日本国内はもちろん、韓国にまで茶の木を探しに出向いたのです。良い茶の木に出会ったときに持ち帰るため、旅には保水用の水苔を必ず持参し、時には野菜の切り口に枝を刺して持ち帰ったといわれます。

20年の苦労が全て薪にされても

支援者を失い、試験地を返上せざるを得なくなったとき、彦三郎は77歳。その試験地で20数年にわたり心血を注ぎ育てた茶の木は、全て抜かれ薪にされてしまいます。77歳という高齢で、このような試練に遭ったにもかかわらず、今度は私財をなげうち研究を続け、後進を育てた彦三郎の情熱は執念ともいえます。

お茶栽培の素人であった杉山彦三郎が、生涯をかけて達成させた苦労や情熱を思うと、いつものお茶が味わい深く特別なものに感じられるのではないでしょうか。

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