生涯を通じ茶の木の品種改良を追求した情熱の人。地元静岡では、没した後も「彦三郎翁」と呼ばれ敬われる「やぶきた」生みの親、杉山彦三郎をご紹介します。
杉山彦三郎とは
杉山彦三郎(すぎやまひこさぶろう)は、安政4年(1857)に安倍郡有度村(現・静岡市)で生まれました。父が営む造り酒屋と漢方医の跡は弟に譲り、自らは農業の道へ進みます。
ちょうど彦三郎が生まれた頃、日本はアメリカと修好通商条約を締結し、お茶は生糸に次ぐ輸出品となり、花形産業へと発展します。そんな時代に杉山彦三郎が始めたお茶栽培は、師を持たず体験から学びながらのものでした。
茶業が急速に広がるなか、彦三郎は粗悪品を取り締まる茶業組合の幹事も務めました。それでも本人は「自分自身が優良なお茶を産出できないことを恥じている」と語っており、その述懐から誠実な人柄が伝わってきます。
苦労を重ねて品種改良に成功し、「やぶきた」を生み出したものの、その隆盛を見ることなく昭和16年(1941)に83歳で亡くなりました。
現在では、静岡市内に胸像碑が建てられ、「やぶきた」の原木は静岡県の天然記念物に指定されるなど、その功績が認められています。また茶業功労者への表彰を行う「杉山彦三郎賞」も存在します。
日本のお茶を変えた杉山彦三郎の功績
杉山彦三郎の最大の功績は、農林水産省の最新資料でも日本最大の品種シェアを誇る「やぶきた」の開発です。独学で品種改良の概念を切り開き、地元の茶業振興にも尽くした、日本近代茶業の礎を築いた人物です。
「品種改良」の始まり
自ら山野を切り開き茶園を造成し、ほぼ独学でお茶栽培を始めた彦三郎は勧農局(農業振興を掌じる内務省の内局)の役人などからお茶づくりを学び、遠縁の茶師・山田文助から製茶を学びました。
「良いお茶を作るためには、まず良い茶葉が必要」とする茶師・山田文助に付いてお茶を観察するうちに、「お茶の成長には早いものと遅いものがある」「品種により茶葉の良し悪しに差がある」ということに気づきます。
これらは今でこそ当然のことですが、当時は一つの茶園にさまざまな品種が混在し、収穫する茶葉の品質にバラツキがあることが当たり前でした。そんな状況の中で、この気づきは大きな発見であり品種改良への第一歩だったのです。
「やぶきた」の開発
良質のお茶を安定して生み出すためには、優良な茶の木が必要だと確信した彦三郎は、品種改良に力を入れます。しかしそれは学問的知識が無いままに、ひたすら試行錯誤を繰り返す作業でした。
今でこそ、彦三郎の取り組みは「品種改良」として理解されますが、当時は周囲にその価値をわかってもらえず、変わり者扱いされました。
それでも彦三郎は、35歳頃から次々と新品種を生み出していきました。なかでも、良い茶の木を選び、藪の北側に植えた株を「やぶきた」、南側に植えた株を「やぶみなみ」と名づけて育て始めます。するとやぶきたは病気に強く、育てやすいうえ、味わいの整った茶葉をつけることがわかりました。
「やぶきた」は発表後に品質を認められはしたものの、戦争を挟んだため彦三郎の死後14年を経てようやく日本中に広まったのです。
地元の茶業振興に尽力する
杉山彦三郎の功績は、品種改良だけにとどまりません。
50代になると、茶業中央会議所会頭を務めた大谷嘉兵衛という支援者を得て、試験地での品種改良事業に取り組めるようになりました。ところが大谷氏が会頭の座を退くと、茶業中央会議所からの援助は途絶え、試験地も返上せざるを得なくなります。
しかし、77歳の彦三郎はこの窮地に屈しませんでした。
自ら購入した茶園で研究を続ける一方、近隣の青年たちに協力を求め、培ってきた品種改良の知識と経験を後進へ引き継ごうとしました。近隣の農家にも惜しみなく知識を伝え、新しい機械ができればいち早く導入し、製茶業の機械化も進めます。さらに、地元の川の改修や茶園周辺の整備にも力を尽くしました。没後も「彦三郎翁」と慕われる理由は、こうした働きの積み重ねにあります。
杉山彦三郎の情熱を物語る3つのエピソード
茶畑を這うように歩き回り「イタチ」と呼ばれた姿、交通の不便な時代に朝鮮半島まで茶の木を探しに出向いた行動力、そして77歳で20数年の研究成果を失っても諦めなかった執念——彦三郎の人物像を伝える逸話を3つご紹介します。
「イタチ」と呼ばれた男
良い茶の木を見つけるために、彦三郎は昼夜を問わず茶畑をうろつき、時には人の畑にまで入ったといわれています。地面を這いつくばって茶畑を動き回る姿から「イタチ」と嘲笑されても、理想の茶の木を探すことを止めませんでした。
「この木こそは」と思う茶の木を見つけると、その茶葉を生のまま噛み吟味していたため、前歯が欠けていたという逸話も残っています。
持てる情熱を全て傾けて、理想の品種を追い求めたのです。
お茶のためならどこへでも
彦三郎の「良いお茶を見つけたい」という情熱は、とどまるところを知らず彼を動かしました。
交通手段が発達していない時代に日本国内はもちろん、朝鮮半島にまで茶の木を探しに出向いたのです。良い茶の木に出会ったときに持ち帰るため、旅には保水用の水苔を必ず持参し、時には野菜の切り口に枝を刺して持ち帰ったといわれます。
20年の苦労が全て薪にされても
支援者を失い、試験地を返上せざるを得なくなったとき、彦三郎は77歳。その試験地で20数年にわたり心血を注ぎ育てた茶の木は、全て抜かれ薪にされてしまいます。
77歳という高齢で、このような試練に遭ったにもかかわらず、今度は私財をなげうち研究を続け、後進を育てた彦三郎の情熱は執念ともいえます。
杉山彦三郎の歩みを知って湯のみを手に取ると、いつもの一杯の向こうに、茶畑を這うように木を見つめた人の執念がふっと重なって見えてきます。
一杯のお茶で感じる、彦三郎の遺産
杉山彦三郎が発見したやぶきたについては「やぶきた」をご覧ください。私たちが扱う煎茶の多くは、彼が静岡の藪の北に見つけたあの一本の木につながるやぶきたの葉で作られています。グリーンティーコレクションを通じて、その遺産を味わってみてください。
