July 31, 2020
お茶にまつわる人物|山本嘉兵衛

「山本山」の山本嘉兵衛 とその功績

山本嘉兵衛は、日本の茶の歴史を語る上で欠かせない人物です。といっても「山本嘉兵衛」は一人の人物ではありません。山本家の当主が代々「嘉兵衛」を名乗ってきたからです。今回の記事では、山本家の歴代当主の中から、初代・山本嘉兵衛と、4・5・6代目山本嘉兵衛の功績の数々をご紹介します。

初代・山本嘉兵衛~山本山の始まり

初代・山本嘉兵衛は、山城国(現・京都府)宇治山本村から江戸に上り、1690年に日本橋で和紙や茶・茶器類等を扱う「鍵屋」を創業します。これが現在も続く「山本山」の始まりです。「鍵屋」の屋号はその後「紙屋嘉兵衛」「都竜軒嘉兵衛」「山本屋嘉兵衛」「山本屋嘉兵衛商店」と変化していきます。その後1941年に、販売していた人気の茶の名前から店名を「山本山」としました。

4代目・山本嘉兵衛~山本山の躍進と「永谷園」

4代目・山本嘉兵衛の時代に、「山本山」躍進のチャンスが訪れます。「青製煎茶製法」を開発した「永谷宗円」が、煎茶を売り込むため山本山を訪れたのです。他の茶商では相手にされなかったこの煎茶を飲んだ4代目・山本嘉兵衛は、茶の色の美しさ、味わいの深さに驚き即座に買い取ることを決めます。この煎茶はその後「天下一」と名付けられ、江戸はもとより全国的な大人気商品となるのです。これにより山本山は莫大な利益を得たことに感謝し、永谷家に対し小判25両を約130年間送り続けたというエピソードが残っています。そして、この永谷宗円から数え10代目の永谷嘉男により「永谷園」は創業されるのです。

5代目・山本嘉兵衛~「狭山茶」の発掘

5代目・山本嘉兵衛は、現在の埼玉県で栽培されていた「狭山茶」を発掘しました。もともと茶の産地であった狭山では、当時全国的に人気を博した煎茶製法にならい茶を作り始めます。5代目・山本嘉兵衛が、その味の良さに気づき製法へのアドバイスを繰り返し、できあがった物が「狭山茶」です。1819年に売買契約を交わし「霜の花」「雪の梅」と名付け売り出すと人気を博しました。狭山茶は「静岡茶」「宇治茶」と並んで「日本三大茶」と称される存在になり「味は静岡、香りは宇治よ、味は狭山でとどめさす」という茶摘み歌が残っているほどです。

6代目・山本嘉兵衛~「玉露」を創りだす

6代目・山本嘉兵衛は玉露の製法を編み出したといわれています。当時はどの茶商も普及しきった煎茶の差別化に、しのぎを削っていました。そんな中、6代目・山本嘉兵衛が京都(宇治)を訪れた際、製茶中に茶葉を露のように丸くあぶることを思いついたことが「玉露」誕生のきっかけといわれています。「玉露」は、そのまろやかで上品な風味が旗本や大名から評判を呼び人気となりました。ちなみに名前の由来は、玉露独特の旨みが玉の露のようだからという別の説もあります。さらに、明治時代に現在の形(棒状)へと玉露を完成させたのは、辻利右衛門(「辻利」創業者)といわれています。

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