日本茶の歴史|奈良・平安時代
今や日本人の国民的な飲み物となっているお茶ですが、元々は奈良時代後期に中国から伝来したものでした。
ここでは、奈良・平安時代の日本のお茶事情について解説していきます。
お茶の伝来
日本にお茶が伝来したのは約1,200年前のことで、最澄や空海、永忠といった留学僧が「餅茶」という固形茶を中国から持ち帰ったのがはじまりだと言われています。
お茶を飲んだという最も古い記録は『日本後紀』にあり、弘仁6年(815年)に永忠が嵯峨天皇にお茶を献じたという内容が書かれています。
それがきっかけとなり、嵯峨天皇は同年6月に大和や播磨などで茶を栽培させることを決め、毎年献上するように命じました。
これが日本におけるお茶栽培のはじまりです。
平安時代の前から飲まれていたお茶
お茶を飲んだことに関する最も古い記録が弘仁6年、つまり平安時代に見られることは上述した通りですが、お茶はそれ以前から飲まれていたと考えられています。
というのは、古くは奈良時代後期にすでに茶道具などがあったという資料も存在しているからです。つまり、その時代にはもう遣唐使などを通じてお茶が伝来していたと推測できます。
ただし、この時代のお茶は上流階級の飲み物であり、庶民が口にすることはできませんでした。
餅茶(団茶)って?
奈良・平安時代に飲まれていたお茶は、「餅茶(団茶)」と呼ばれるお茶でした。
餅茶は、蒸した茶葉を粉状にし、仕上げの段階で餅のように固めたお茶で、 飲む時には必要な分を切り取って火であぶり、それを粉末にしてから熱湯に入れて飲んでいました。
その後、すり鉢を用いてさらに茶葉を細かくする固形茶、「団茶」も登場していくことになりますが、餅茶や団茶には「匂いが強い」という欠点がありました。
そのため、日本人の好みに合わず、餅茶や団茶は徐々に衰退していったといわれています。
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日本茶の歴史|大谷嘉兵衛
「茶聖・大谷嘉兵衛」。その功績は、茶業界だけにとどまらず多岐にわたります。時には私財さえ投げ出し、茶業界のため日本のために尽力した大谷嘉兵衛の一生を詳しくご紹介します。
世界を舞台に活躍した明治の大実業家「大谷嘉兵衛」の生涯
誕生~青年期
大谷 嘉兵衛は、1845年伊勢国(現・三重県松阪市)に生まれました。
19歳の嘉兵衛は、近隣出身の小倉籐兵衛が横浜で営む製茶貿易商「伊勢屋」に奉公します。働きぶりが認められ伊勢屋の養子となるも、養父と折合いが合わず離縁。
その後スミス・ベーカー商会の製茶買入方として働き、海外取引責任者となりました。
青年期~熟年期
23歳で幼名の藤吉から嘉兵衛へと改名。スミス・ベーカー商会に勤めながら、横浜に自身の会社「巴屋」を開業、業績を伸ばし茶業界への影響力を付けていきます。
自身の商売だけではなく、輸出急増に伴い茶の品質低下が問題となると、茶の品質向上に尽力。農商務省と協力し全国の茶業を統括する中央茶業本部を設立。政治の世界でも活躍し、茶業界や貿易業界の要職を歴任しました。
熟年期~晩年
49歳で「日本製茶株式会社」を設立。外人商館を通さず直接の輸出取引を始めます。
その後、政府の補助を受け、海外に出張所を開設。同年に横浜商業会議所会頭に就任。1899年に開催されたフィラデルフィア万国商業大会では、日本代表としてアメリカ合衆国大統領と面会し、お茶の関税撤廃を陳情、「太平洋海底ケーブル」の敷設を提案しました。
晩年まで政財界での活躍は続き、1933年90歳の天寿を全うします。
大谷嘉兵衛の功績
「茶聖」と呼ばれた男
先見の明を持つ19歳
嘉兵衛が13歳になる頃、日米修好通商条約が結ばれます。
日本の緑茶は外国人の好みに合い、輸出額は年々増加。生糸に次ぐ輸出商品の花形に成長します。茶の産地伊勢で育った嘉兵衛は、その将来性を肌で感じながら成長したのです。
19歳になった嘉兵衛は、隣村の出身者が横浜で営む製茶貿易商「伊勢屋」に奉公します。10代にして「茶の将来性」を確信し、茶業に携わることを決めた嘉兵衛にはの「先見の明」がありました。
大勝負に出た23歳
急激な需要増で品薄となった茶の買い付けを命ぜられ、嘉兵衛は大阪へ向かいます。見本を見るだけで大胆に買入れを続け約4トンもの茶を購入、使った金額は26万両(104億円/1両を4万円で計算)といわれています。
当時は全て現金による取引のため、拠点とした旅館の玄関に大きな金庫を据えての商売でした。珍しい光景を見ようと、山のような見物人が押し寄せたといいます。
この功績により多額の報酬を得た嘉兵衛は、スミス・ベーカー商会で働きながら、横浜に製茶売り込み業の「巴屋」を開業。嘉兵衛の商売人としての豪胆さがよく分かるエピソードです。
生涯止まらない活躍
嘉兵衛は、故郷伊勢の茶業・教育・架橋に多大な貢献をします。嘉兵衛の力によって伊勢茶の多くが海外に輸出され、地元経済を潤しました。
さらに、嘉兵衛の活躍は晩年になってもとどまることを知りません。
日本貿易協会の会頭、複数の銀行の頭取などを務め台湾鉄道・南満州鉄道・韓国銀行・常磐生命・川俣電気会社などの設立に関与。銀製黄綬褒章をはじめ、勲五等瑞宝章、勲三等瑞宝章、紺綬章、ベルギーよりレオポルド1世勲章を授かっています。
活躍の多様さや受章の多さからも、嘉兵衛の活躍ぶりを知ることが出来ます。
国際的な貢献
1899年にフィラデルフィアで開かれた万国商業大会に日本代表として参加した嘉兵衛は、前年から実施された日本茶に対する高い課税撤廃をアメリカ大統領に直訴。その結果、関税が廃止され茶の輸出は再び増加しました。
さらに、日本の茶業界が世界で戦うには、迅速に海外の状況を知る情報伝達手段が必要だとして、太平洋海底へのケーブル敷設を提案しインフラ整備に貢献したのです。
新しい取組みへの理解
嘉兵衛が茶業中央会議所会頭を務めた当時、一人の茶農家が周囲の理解を得られないまま「茶の品種改良」に取組み苦しんでいました。「茶の品種改良」の必要性を理解した嘉兵衛は、私財を投じて土地を購入し試験地として提供、品種改良事業を激励しました。
その茶農家が、現在も日本の茶生産量の70%以上を占める品種「やぶきた」の生みの親「杉山彦三郎」です。誰も理解を示さなかった「茶の品種改良」に、私財を投じて貢献した嘉兵衛は「やぶきた」のもう一人の生みの親ともいえます。
世界を舞台に活躍した明治の大実業家「茶聖・大谷嘉兵衛」を知ると、一杯のお茶から胸躍るロマンを感じられるのではないでしょうか。
日本茶の歴史|高林謙三
医師としての成功をつかんだにもかかわらず、生涯を製茶機械の発明に捧げた高林謙三。その波瀾万丈の生涯をご紹介します。
「製茶機械の父」高林謙三とは
生い立ちとその生涯
医学の世界からお茶の世界へ
16歳で医学を志し漢方医学・西洋外科医術を学び医師として成功していた謙三でしたが、明治に入り当時の貿易不均衡を案じ「茶の振興が急務」と、茶園経営を始めます。
当時全て手作業だった栽培・製茶作業の効率の悪さを改善するため機械化を思い立ち、私財を投じて製茶機械開発を始めます。
その後、「焙茶機械」・「生茶葉蒸器械」・「製茶摩擦器械」を発明、特許を取得しました。
逆境から亡くなるまで
謙三が最終的に目指したのは、全工程のオートメーション化でした。
54歳の謙三は医師を廃業し開発に専念します。やっとの事で完成にこぎ着けた「自立軒製茶機械」でしたが、不備が見つかり返品が相次ぎます。その結果、経済的困難に見舞われますが、屈することなくその後も開発を続け68歳の時「茶葉粗揉機」を完成させ、特許を取得しました。
その後、この機械の監査役として静岡で生活していましたが、1899年に脳出血で他界しました。
発明家・高林謙三の栄光と挫折
栄光・民間初の特許を取得
謙三が「生茶葉蒸器械」・「焙茶機械」・「製茶摩擦器械」を相次いで開発した同時期に日本の特許制度がスタートします。すぐに特許を申請し、それぞれの機械が「特許2・3・4号」を取得しました。
日本の特許第1号は宮内省技師の発明した軍艦塗料なので、謙三は民間発明家として日本初の特許取得者となりました。
その後も改良扇風機で特許第60号、茶葉揉捻機で特許第150号、茶葉粗揉機で特許第3301号を取得しています。謙三は6つの特許を取得した、優秀な発明家だったのです。
挫折・自立軒製茶機械の失敗
謙三が医師を廃業してまで開発に専念し1887年に完成させたのが、「自立軒製茶機械」です。当初は国の後押しで全国の茶業者に対し説明会が開かれ、注文も殺到しますが、その後苦情が相次ぎ、この機械で製造した商品までが不良品のため返品されてくる始末でした。
さらに、自宅を火事で失うという不幸まで続きます。農商務省の計らいで、研究用製茶工場を設けますが、家庭の経済は切迫し、肺の病気を患いながらの開発だったようです。それでも、謙三は機械開発に向けての努力を続けました。
栄光・茶葉揉乾機の発明
謙三は「製茶機械の父」と言われています。「茶葉粗揉機」は、製茶業の作業形態を大きく変えました。謙三の機械は、その原理や構造が現在も全国の製茶機械に使われている素晴らしい発明です。
さらに、茶が当時の主要な輸出品だったことを考えると「日本経済に貢献した」と言えるほどの大きな発明だったのです。
日本の製茶業界|機械化前と機械化後
機械化前の製茶業界
現在、茶園で摘採した生葉は、蒸器→粗揉機→揉捻機→中揉機→精揉機→乾燥機を経て製品化されます。
機械化以前はこの工程を全て手作業で行っていたので、職人1人当たり一日に3~5kgの製茶しかできませんでした。そのため、茶の輸出量増加に生産が追いつかない状況が続き、粗悪品が急増するという事態が発生します。製茶の機械化は、国を挙げての急務だったのです。
機械化後の製茶業界
謙三が目指した「機械化」は、手揉みと変わらない品質を実現し、なおかつ低コストで大量生産することでした。
残念ながら、謙三は全行程のオートメーション化を実現することはできませんでしたが、下揉み作業の省力化に大きく貢献しました。明治の初めには1万トン弱だった生産量が、明治末には3万トンを超えるようになります。
謙三は人の手作業を忠実にまねる機械を目指したので、茶の品質が低下することはありませんでした。その証拠に、日本一の茶師・大石音蔵と謙三の「茶葉揉乾機」を対決させた結果、能率・品質においても機械が圧勝。大石音蔵自ら、この機械を買い求めたというエピソードが残っています。
高林謙三の生涯を知ると「茶葉」の美しさが、よりいっそう心にしみますね。
日本茶の歴史|永谷宗円
お茶の歴史は永谷宗円(ながたにそうえん)抜きでは語れません。この記事では「青製煎茶製法」を生み出し、煎茶の普及に大きく貢献した永谷宗円について解説します。
永谷宗円とは
永谷宗円の基本情報
永谷宗円は、延宝9年(1681)に山城国(現・京都府)宇治田原郷湯屋谷村に生まれました。
永谷家の祖先は侍でしたが、文禄元年(1592)に湯屋谷の土地を開拓して茶園を開き、製茶業を営むようになりました。家業である製茶業に従事した永谷宗円は、農地改良などの陣頭指揮を執る「村のリーダー」でもあったようです。
安永7年(1778)に97歳で没した後も日本緑茶の祖として尊ばれ、生家に隣接する大神宮神社に「茶宗明神」として祀られています。
誰もが知っているあの企業との繋がり
永谷宗円と聞いて「聞いたことがある名前だな」と思った人もいるのでは?
永谷宗円は「お茶づけ海苔」で有名な、あの「永谷園」と深い繋がりがあります。
「永谷園」は、永谷家10代目の永谷嘉男により創業されました。創業当初の永谷園は、製茶業や茶量(煎茶道の道具)の切売りをしていましたが、1952年に発売した「お茶づけ海苔」で経営を不動のものとしました。
現在の永谷園の商品は、ふりかけ・即席味噌汁など、お茶とは無縁のものがほとんどですが「お茶づけ海苔」の原材料には、しっかりと抹茶が使われています。
永谷宗円の「お茶」への功績
永谷宗円のお茶への功績は2つあります。
現在の煎茶製法の基となる「青製煎茶製法」を生み出した
その当時、富裕層は挽き茶(現在の抹茶)、庶民は煎じ茶(現在の煎茶)を飲んでいましたが、煎じ茶は色が赤黒く味もあまり良くないものでした。「青製煎茶製法」により色の良い、おいしい煎じ茶が誕生し広く普及したため、庶民もおいしいお茶を楽しめるようになりました。
宇治茶を江戸で販売することに成功した。
日本最大の消費地となった江戸に目を付け、高い年貢や他のお茶産地に押され斜陽になり始めた宇治田原のお茶(宇治茶)の販路拡大に成功したのです。
永谷宗円と関係の深いもう一つの有名企業「山本山」
当初江戸では、新製法のお茶を評価する茶商はいませんでした。しかし、元文3年(1738)に和紙やお茶・茶器類を扱っていた山本山を訪れた際、4代目の山本嘉兵衛が永谷宗円のお茶を気に入り、即買い取ったと言われています。
その後、この煎茶に「天下一」と名付けて売り出すと、大人気となり江戸から全国へ広がりました。永谷宗円のお茶によって莫大な利益を得た山本山は、その後毎年謝礼として、小判25両を明治8年(1875)まで永谷家に渡したというエピソードも残っています。
青製煎茶製法とは
「青製煎茶製法」以前のお茶は、茶葉を加熱した後、乾燥し仕上げたもので色が黒っぽく、味もあまりおいしくなかったようです。お茶の色から「黒製」と呼ばれていました。
宗円の考え出した「青製煎茶製法」は、蒸した茶葉を乾燥させる前に「揉む」作業が加えられ、色が美しく、味わい深いものになりました。こちらは、お茶の色が青い(緑色)ことから「青製」と呼ばれました。
「青製煎茶製法」を生み出した永谷宗円がいなければ、現在の煎茶の美しい色や味わいを楽しむことはできなかったのです。
日本茶の歴史|明治・大正時代
明治時代、お茶は重要な外貨獲得の手段として大量に輸出されていました。
ここでは、明治・大正時代におけるお茶の歴史や、お茶づくりの機械化などについてご紹介していきます。
お茶は日本の主産業へ
明治〜大正時代、お茶は日本の重要な輸出品目として捉えられるようになっていました。
そのきっかけとなったのは、江戸時代における欧米との修好条約の締結です。当時、長崎の出島を貿易の窓口として、181トンものお茶が海外に輸出されていました。
そして、明治維新後もお茶は輸出品の主軸としての地位を占め続け、その輸出量は2万トンにも達します。
大谷嘉兵衛の功績
明治時代のお茶産業の発展に最も大きな功績を残したのは、大谷嘉兵衛という人物です。
もともと大谷は横浜最大のお茶の売り込み商でしたが、明治27年(1894年)には日本製茶株式会社を設立します。
彼は、輸出茶の品質管理などを徹底的に行なったほか、アメリカが茶に対する関税をかけた際には渡米して製茶関税の撤廃運動を実施するなど、日本の茶産業の振興に人生を捧げた人物でした。
お茶の機械化
日本の中でお茶が重要な外貨獲得の手段となっていたことはすでに述べた通りです。 しかし、当時の日本には急増する需要に応えるための製造手段がまだありませんでした。
そこで、明治時代にはお茶を効率的に製造するための機械化が進められていくことになりました。 中でも、お茶の機械化を進めていく中で大きな役割を担ったのが高林謙三という人物です。
彼はもともとは医師でしたが、のちに製茶業に携わる発明家に転身。明治17年(1884年)に焙茶機などをを製造したほか、明治29年(1896年)には粗揉機を完成させ、それまで手揉みで行なっていた作業を大幅に効率化させました。
その他、収穫の効率をアップさせるための手バサミなども考案され、輸出のためのお茶の大量生産が徐々に可能になっていったというわけです。
牧之原台地の開拓
静岡県は現代でも日本有数のお茶の産地ですが、そのきっかけとなったのは明治時代における牧之原台地の開墾でした。
そもそも牧之原台地は、江戸時代末期までは何もない荒地でしたが、お茶の輸出がはじまって需要の高まりに伴い、開墾されることになります。
その開墾にあたったのは、明治維新の「四民平等」によって職を失った士族たち。 中でも200人以上の武士からなる「農業素人集団」を率いて開拓事業に当たった中条景明は、現代の牧之原におけるお茶作りの基盤を作った人物として、現代にまで語り継がれています。
荒地だった牧之原台地の開拓は非常に難航し、士族たちは慣れないクワや過酷な労働に嫌気がさし、徐々に離散していってしまいます。 それ以後も、その作業は川渡しの人足たちに引き継がれていきますが、やはり過酷な労働や貧困に耐えきれず、多くの人々が脱落していったと言います。
現代でも私たちが静岡県の良質なお茶を楽しめているのは、そのような人々の苦労や努力があってのものなのです。
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日本茶の歴史|室町・安土桃山時代
日本の茶の湯文化が花開くのは、室町〜安土桃山時代。 村田珠光や武野紹鴎、千利休といった茶人たちの活躍によって現代の茶道の基盤が形作られることになりました。
ここでは、そんな彼らの功績や、侘び茶の概要などについてご紹介していきます。
「茶の湯」の大成
「茶の湯」は、客を招いてお茶の席でもてなすことを指します。
現代では「茶道」と呼ばれることが一般的ですが、茶道というのは江戸時代に芸道を指す言葉として使われるようになったもので、室町時代や安土桃山時代では「茶の湯」という呼び方が主流でした。
そんな茶の湯を大成した人物としては、村田珠光・武野紹鴎・千利休が挙げられます。
ここでは、そんな3人の功績を簡単に振り返っていきましょう。
村田珠光
村田珠光(1423〜1502)は、室町時代の茶人です。
もともと珠光は寺の徒弟でしたが、修行に身が入らず、京都にのぼって茶の湯をはじめました。
珠光の功績としては、茶道具や茶室に飾る絵画や墨跡にとことんこだわり抜き、厳選した名物を四畳半の座敷に飾るという独特のスタイルを生み出したことが挙げられます。
彼は「藁屋に名馬をつなぎたるがよし(粗末な空間に良い茶器があるのがよい)」と述べていますが、素朴さや簡素さを愛する茶の湯の基盤がここで形成されたと言えるでしょう。
武野紹鴎
武野紹鴎(1502〜1555)も、村田珠光と同じく室町時代の茶人。
武野紹鴎はもともと有力な堺の町衆でしたが、27歳の時に三条西実隆という貴族から和歌や連歌などを学びます。 その後、出家してさらに連歌を極めるつもりでしたが、当時新しい芸術として芽吹きつつあった茶の湯に目をつけ、珠光の門人たちから教えを受けることになりました。
武野紹鴎の残した功績は、茶室に飾る道具を中国のものに限定せず、南蛮からの渡来品や日本で作られたものなどを自由に飾るようにしたことです。
伝統に固執することをやめ、茶の湯にさらなる創造性を加えたという点で彼の功績は非常に意義深いものだったと言えるでしょう。
千利休
千利休(1522〜91)は、室町〜安土桃山時代の茶人で、一般的に「茶の湯の大成者」として知られています。
彼は10代の頃から茶の湯をはじめ、40代の頃には友人の紹介で織田信長に仕えることになります。 織田信長の死後は天下人となった豊臣秀吉に仕えることになりますが、最終的には切腹に追い込まれて非業の死を遂げました。
ここまで村田珠光や武野紹鴎が茶の湯の基盤を作ってきたことはすでに述べた通りですが、千利休の茶の湯はさらにそれらを洗練したものでした。
彼の茶の湯のスタイルを一言で言い表すとするなら、「究極の簡素美」です。
千利休は、元々四畳半だった茶室をさらに狭くし、きらびやかな装飾を徹底的に排除していきました。 その結果、現代でも親しまれているような、簡素さを良しとする茶の湯の精神が大成されたのです。
「侘び茶」って何?
千利休はしばしば「侘び茶の大成者」とも称されます。
侘び茶とは、辞書的に言うと「わびの境地を重んずる茶の湯のこと」(『日本国語大辞典(第2版)』)を指します。
侘びの精神を一言で説明するのは難しいのですが、簡単に言うと「不完全さや簡素さを謳歌する精神」ということになるでしょう。
たとえば、千利休は茶室から余分なものや贅沢なものを極限まで排除し、一見するとみすぼらしく見えるような茶器を用いて茶事を行いました。
あらゆるものへの執着を捨て、簡素なものの中に真の美しさを見出す。その境地に至ることを目的としたのが、「侘び茶」と言えるでしょう。
宇治茶の振興
千利休が好んで用いたお茶に「宇治茶」があります。
元々宇治茶は、明恵上人という僧侶が宇治にお茶の種を撒いたのが発祥であると言われていますが、16世紀後半になると宇治で「覆い下栽培」という新しい栽培法が開発されます。 覆い下栽培によって作られたお茶は、鮮やかな濃緑色で、強い旨味を持つのが特徴でした。
千利休はそのような宇治茶を好み、最良のお茶として位置付けたのです。
なお、当時飲まれていたのは現代のような煎茶でなく、茶葉を揉まずに乾燥させた碾茶や、それを挽いて粉末状に加工した抹茶でした。
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日本茶の歴史|鎌倉・南北朝時代
鎌倉時代は、私たちがよく知る「抹茶」がよく飲まれるようになった時代です。
ここでは、鎌倉時代におけるお茶作りの普及や、南北朝時代の「闘茶」という文化などについてご紹介していきます。
お茶作りの始まり
一般的には、禅僧である栄西(1141〜1215)が中国から茶の種子を持ち帰り、福岡県の背振山に植えたのがお茶作りの起源であると言われてきました。
しかし、実際の史料を見ると、すでに平安時代には嵯峨天皇が茶の栽培を各地で行わせていたことがわかっています。
京都や東国へのお茶の普及
上述した通り、栄西は日本ではじめて茶を栽培した人物ではありません。 しかし、「京都や東国にお茶を広める」という重要な役割を担った人物でした。
栄西は京都に建仁寺を建立して住職となりましたが、その際に明恵上人という僧侶に茶を贈ります。 そして、明恵上人はそれを梅尾高山寺の境内に植えて栽培し、宇治にその種子を撒きました。 これが「宇治茶」のはじまりだと言われています。
また、栄西は鎌倉の寿福寺の住職も勤めましたが、それがきっかけでお茶が東国に広まっていったと言います。
『喫茶養生記』って?
栄西の残したもうひとつの大きな功績は、『喫茶養生記』という日本ではじめての茶書を執筆したことです。
『喫茶養生記』は元々医学書として書かれたもので、お茶の薬効や茶の栽培方法、喫茶の方法などについてまとめられた書物です。
歴史書である『吾妻鏡』によると、鎌倉幕府の3代将軍源実朝が二日酔いで苦しんだとき、お茶とともにこの本が献上されたと伝えられています。
碾茶って?
奈良・平安時代に主に飲まれていたのは固形茶である「餅茶(団茶)」でしたが、鎌倉時代には「碾茶」が主流となりました。
碾茶というのは、簡単にいえば抹茶の原料になるお茶のこと。 抹茶は碾茶を臼などで挽いて細かい粉末状にしたものです。
当時の抹茶は、禅僧が修行中にくる睡魔を撃退し、精神を集中するために用いていました。
鎌倉時代のお茶・闘茶について
鎌倉時代には、武士や貴族なども社交の席としてのお茶を楽しむようになります。 その場では、客人をもてなすために中国から伝来した絵画や花瓶などを飾り、唐の茶器を使ってお茶を淹れました。
1320年ごろになると、社交の場でお茶を飲む習慣は遊戯性を増していき、お茶を飲んで産地を当てる「闘茶」へと発展します。
当初の闘茶は、明恵上人を始祖とする「本茶」を当てるという単純なものでした。
しかし南北朝時代に入ると、徐々に酒食を持ち込んだり賭け事を行ったりする過激なものへと変わっていきます。最終的に、過激さを増した闘茶は、足利尊氏の出した「建武式目」という法律によって禁止されてしまいました。
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侘び茶を完成させた文化人・武野紹鴎について
村田珠光から始まる「侘び茶」完成への流れを、千利休へ引き継いだ人物「武野紹鴎」についてご紹介します。
武野紹鴎とは
武野紹鴎(たけのじょうおう・1502 -1555)は大和国(現・奈良県)で生まれました。20代になると京都で暮らし始めます。27歳で、当時最高の文化人であった三条西実隆に古典や和歌についての教えを受けるようになりました。
また、村田珠光の流れを継ぐ茶人から茶の湯を学びます。31歳の時に、応仁の乱で荒れた京都から堺へ移り住み、出家し「紹鷗」の法名を受け、茶の湯に専念し「佗び茶」の道を追求したとされています。
村田珠光が目指した「侘び茶」
紹鴎は村田珠光の孫弟子にあたります。師匠・珠光が見いだした「侘び茶」を、紹鴎がさらに洗練させ、紹鴎の弟子である千利休が完成させたのです。
珠光が残した言葉を知ることで紹鴎が目指した「侘び茶」の源を知ることができます。
「物」に関する言葉
珠光は「和漢のさかいをまぎらかすこと肝要」という言葉を残しています。唐物だけを良しとした風潮に対し、日本の焼物のもつ素朴な美しさにも関心を寄せることが肝心だと主張し、新たな美意識を茶の湯の世界にもたらしました。
そんな珠光が残した茶道具は「珠光名物」と呼ばれ、そのうちの1つの茶碗を千利休が使用していたとの逸話も残されています。
また「月も雲間のなきは嫌にて候(光輝く満月よりも、雲の間に見え隠れする月の方が趣があり良い)」という言葉からは「不足の美」を良しとする、「新しい茶の湯」の姿が見えます。この美意識は茶室を作る際にも影響し、珠光は茶室を四畳半という狭い空間に区切り、装飾を排することで現れる美を目指したのです。
「心・精神」に関する言葉
禅の影響を受けた珠光は「物を極限まで排することで現れる美」を追究しました。そして、物の不足を「心の豊かさ」で補うことを目指したのです。
茶の湯の「心・精神」を重視した珠光は、茶の湯の道にとって最も大きな妨げとなるのは「慢心と自分への執着」であるとし、どんなに上達しても人には素直に教えを請い、初心者にはその修行を助けることを説いています。
さらに、珠光が弟子に宛てた一節に「心の師とはなれ、心を師とせざれ。」があります。「移ろいやすい心に振り回されず、自分が心をコントロールする立場になりなさい」という意味です。珠光は茶の湯を、心をコントロールし自分自身と対峙する「精神修行の場」とすることを目指したのです。
武野紹鴎の「侘び茶」
紹鴎は、村田珠光からの流れを受け継ぎ、「侘び茶」にさらなる精神性を取り入れた人物です。そんな紹鴎に影響を与えた、2人の人物をご紹介します。
文化人・三条西実隆(さんじょうにしさねたか)
当時最高の文化人であった三条西実隆に連歌・和歌を学んだことは、紹鴎の「侘び茶」に大きな影響を与えました。
紹鴎は「連歌は枯れかじけて寒かれと云ふ。茶の湯の果てもその如く成りたき」という言葉を残しています。連歌における「冷え枯れる」という概念を、茶の湯に向き合う心としたいという意味です。「冷え枯れる」とは、「樹木が枯れる初冬の冷え冷えとした空気。または、そこで感じる清々しく凛とした心持ち。」を表す言葉です。紹鴎は、そのような心で茶の湯に向き合うことを目指したのです。
紹鴎が目指した境地を表すもう1つの歌が、和歌にあります。藤原定家の「みわたせば 花ももみぢも なかりけり 浦のとまやの 秋の夕暮」です。「秋が深まり、花や紅葉のような楽しく美しい情景は、この海辺の苫屋にはもうないのだなぁ」と歌っているのですが、この情景に美を感じる概念が「足らざることに満足し、慎み深く行動する」侘び茶の概念へとつながっていくのです。
禅僧・大林宗套(だいりんそうとう)
紹鴎は南宗寺の禅僧・大林宗套より禅を学ぶことにより、茶の湯に向き合う精神と禅の精神をこれまで以上に融合していきます。そしてその流れは、千利休により「茶禅一味」という概念を完成させることにつながるのです。「茶禅一味」とは「茶と禅は、行うことの見た目は違うが、その本質においては別物ではなく、どちらも人間形成の道である。」という意味です。
村田珠光により、茶の湯は戦国時代の無常感のなかで禅と結びつきます。さらに武野紹鴎により、和歌や連歌のエッセンスと共に洗練され、禅の「本来無一物(ほんらいむいちもつ・全ては空であるから何物にもとらわれてはいけない)」の精神に向かい、千利休による「侘び茶」の完成に至るのです。
日本茶の歴史|中條景昭
幕末の大変革期、静岡県の牧之原台地は地元農民でさえ見放す荒れ果てた土地でした。その土地を200名余りの武士からなる「農業素人集団」を率いて、日本有数のお茶の産地に生まれ変わらせた人物「中條景昭」をご紹介します。
中條景昭とは
侍時代
中條景昭は1827年、江戸六番町に旗本の庶子として生まれました。13代将軍・家定に仕え、家中の武士たちに武術を指南する剣客でした。1867年に15代将軍・慶喜が、大政を奉還して駿府(現・静岡県)に移住する際には、精鋭隊の一員として警護に当たります。その後、精鋭隊は使命を終えて解散。江戸から明治となり、幕府を失った景昭ら武士は、第二の人生の選択を迫られることとなります。
開墾開始
景昭は、「金谷原(現・牧之原台地)開墾方」を率いて牧之原台地の開墾に挑むことを決断します。この頃の牧之原台地は、地元農民でさえ見放す荒野であることを承知の上で、「我輩にこの地を与えてくださるならば、死を誓って開墾を事とし、力食一生を終ろう」 と勝海舟に誓ったといいます。
その後、42歳の中條は「金谷原開墾方」を率いて開墾を開始しますが、初めてわずかな茶芽を収穫できたのは、開墾開始から4年後のことでした。
晩年
時代が進み官有地であった土地が個人で売買できるようになると、開墾方のメンバーも農民として残るものから土地を離れるものまで、次第にバラバラになっていきました。
そんな中、神奈川県令(知事)への要請がありましたが、開墾を続けるために断ります。その後は、生産した茶を集めて共同製茶し、輸出品とするため「牧之原製茶会社」設立に取組みますが、事業資金の請願が却下され実現することはありませんでした。
そんな苦難にも負けず、一途に牧之原台地の開墾に生涯を捧げ1896年69歳で亡くなりました。
中條景昭の功績
抜群のリーダーシップ
時代のリーダー「幕末の三舟」と呼ばれた勝海舟、山岡鉄舟らと親交のあった景昭は、彼自身も優れたリーダーでありました。
当時42歳の景昭が率いた「金谷原開墾方」は約200人、その家族を加えるとかなりの大所帯でした。しかも開墾方のメンバーは、身分の高い武士から能楽師まで、さまざまな経歴を持つ「農業の素人集団」だったのです。
そんなバラエティー豊かな「農業の素人集団」をまとめ上げ、牧之原台地開墾という偉業を成し遂げた景昭のリーダーシップは称賛に値するものでした。
武士の矜持と共に第二の人生を牧之原台地に捧げる
将軍の身辺警護をする「エリート官僚」から、開墾・茶栽培という未知の分野への転身にどれだけの葛藤があったかは、現代の私たちにも容易に想像できます。
優れたリーダーでもあった景昭には神奈川県令(知事)への要請もありました。
しかし、「いったん山へ上ったからは、どんなことがあっても山は下りぬ。お茶の木のこやしになるのだ」と断ったことからは、景昭の一途さがうかがわれます。
また、生涯髷を切らず武士の矜持と共に「牧之原台地開墾」に打ち込んだ景昭の葬儀では、その偉業に敬意を表し勝海舟が葬儀委員長を務めました。さらに、景昭の死を悲しむ開墾方のメンバーが21日間も墓参を続けたという逸話からは、景昭の人柄が偲ばれます。
現在の牧之原台地
新茶の季節には一面が鮮やかな緑色に染まる牧之原台地ですが、開墾当初は東京ドーム約42個分・200ヘクタールほどの、水の供給もままならない荒野でした。
その土地を「金谷原開墾方」は、東京ドーム約1,063個分・5,000ヘクタールに開墾、大茶園にしたのです。
景昭亡き後も土地や茶葉の改良が繰り返され、「深蒸し茶」製法の原型が考案されるなど人々の努力が続き、現在では深い緑色の水色とコクのある味わいの「牧之原茶」が、静岡を代表するブランドの1つとなりました。
江戸から明治への激動の時代に、第二の人生を賭けて未知の分野へ挑んだ中條景昭の生き様からは、現代の我々も学ぶべきところが多いのではないでしょうか。
日本茶の歴史|山本嘉兵衛
「山本山」の山本嘉兵衛 とその功績
山本嘉兵衛は、日本の茶の歴史を語る上で欠かせない人物です。といっても「山本嘉兵衛」は一人の人物ではありません。山本家の当主が代々「嘉兵衛」を名乗ってきたからです。今回の記事では、山本家の歴代当主の中から、初代・山本嘉兵衛と、4・5・6代目山本嘉兵衛の功績の数々をご紹介します。
初代・山本嘉兵衛~山本山の始まり
初代・山本嘉兵衛は、山城国(現・京都府)宇治山本村から江戸に上り、1690年に日本橋で和紙や茶・茶器類等を扱う「鍵屋」を創業します。これが現在も続く「山本山」の始まりです。
「鍵屋」の屋号はその後「紙屋嘉兵衛」「都竜軒嘉兵衛」「山本屋嘉兵衛」「山本屋嘉兵衛商店」と変化していきます。その後1941年に、販売していた人気の茶の名前から店名を「山本山」としました。
4代目・山本嘉兵衛~山本山の躍進と「永谷園」
4代目・山本嘉兵衛の時代に、「山本山」躍進のチャンスが訪れます。「青製煎茶製法」を開発した「永谷宗円」が、煎茶を売り込むため山本山を訪れたのです。
他の茶商では相手にされなかったこの煎茶を飲んだ4代目・山本嘉兵衛は、茶の色の美しさ、味わいの深さに驚き即座に買い取ることを決めます。この煎茶はその後「天下一」と名付けられ、江戸はもとより全国的な大人気商品となるのです。
これにより山本山は莫大な利益を得たことに感謝し、永谷家に対し小判25両を約130年間送り続けたというエピソードが残っています。そして、この永谷宗円から数え10代目の永谷嘉男により「永谷園」は創業されるのです。
5代目・山本嘉兵衛~「狭山茶」の発掘
5代目・山本嘉兵衛は、現在の埼玉県で栽培されていた「狭山茶」を発掘しました。
もともと茶の産地であった狭山では、当時全国的に人気を博した煎茶製法にならい茶を作り始めます。5代目・山本嘉兵衛が、その味の良さに気づき製法へのアドバイスを繰り返し、できあがった物が「狭山茶」です。
1819年に売買契約を交わし「霜の花」「雪の梅」と名付け売り出すと人気を博しました。狭山茶は「静岡茶」「宇治茶」と並んで「日本三大茶」と称される存在になり「味は静岡、香りは宇治よ、味は狭山でとどめさす」という茶摘み歌が残っているほどです。
6代目・山本嘉兵衛~「玉露」を創りだす
6代目・山本嘉兵衛は玉露の製法を編み出したといわれています。
当時はどの茶商も普及しきった煎茶の差別化に、しのぎを削っていました。そんな中、6代目・山本嘉兵衛が京都(宇治)を訪れた際、製茶中に茶葉を露のように丸くあぶることを思いついたことが「玉露」誕生のきっかけといわれています。
「玉露」は、そのまろやかで上品な風味が旗本や大名から評判を呼び人気となりました。
ちなみに名前の由来は、玉露独特の旨みが玉の露のようだからという別の説もあります。さらに、明治時代に現在の形(棒状)へと玉露を完成させたのは、辻利右衛門(「辻利」創業者)といわれています。
日本茶の歴史|杉山彦三郎
生涯を通じ茶の木の品種改良を追求した情熱の人。地元静岡では、没した後も「彦三郎翁」と呼ばれ敬われる「やぶきた」生みの親、杉山彦三郎について解説します。
杉山彦三郎とは
杉山彦三郎(すぎやまひこさぶろう)は、安政4年(1857)安倍郡有度村(現・静岡市)に生まれました。父の営む造り酒屋と漢方医の後継は弟に譲り、彦三郎は農業の道に進みます。
ちょうど彦三郎が生まれた頃、日本はアメリカと修好通商条約を締結し、お茶は生糸に次ぐ輸出品となり、花形産業へと発展します。そんな時代に杉山彦三郎が始めたお茶栽培は、師を持たず体験から学びながらのものでした。
急速な発展のため、玉石混交の茶業界で粗悪な商品を取り締まる茶業組合の幹事を勤めますが「自分自身が優良なお茶を産出できないことを恥じている」という述懐から誠実な人柄がうかがえます。
苦労を重ねて品種改良に成功し、「やぶきた」を生み出したものの、その隆盛を見ることなく昭和16年(1941)に83歳で亡くなりました。
現在では、静岡市内に胸像碑が建てられ、「やぶきた」の原木は静岡県の天然記念物に指定されるなど、その功績が認められています。また茶業功労者への表彰を行う「杉山彦三郎賞」も存在します。
日本のお茶を変えた杉山彦三郎の功績
「品種改良」の始まり
自ら山野を切り開き茶園を造成し、ほぼ独学でお茶栽培を始めた彦三郎は勧農局(農業振興を掌じる内務省の内局)の役人などからお茶作りを学び、遠縁の茶師・山田文助から製茶を学びました。
「良いお茶を作るためには、まず良い茶葉が必要」とする茶師・山田文助に付いてお茶を観察するうちに、「お茶の成長には早いものと遅いものがある」「品種により茶葉の良し悪しに差がある」ということに気づきます。
これらは今でこそ当然のことですが、当時は一つの茶園にさまざまな品種が混在し、収穫する茶葉の品質にバラツキがあることが当たり前でした。そんな状況の中で、この気づきは大きな発見であり品種改良への第一歩だったのです。
「やぶきた」の開発
良質のお茶を安定して生み出すためには、優良な茶の木が必要だと確信した彦三郎は、品種改良に力を入れます。しかしそれは学問的知識が無いままに、ひたすら試行錯誤を繰り返す作業でした。
今でこそ、彦三郎のしたことは「品種改良」と認識されますが、当時は人々に理解してもらえず、変わり者扱いされる始末。
それでも、35歳頃から次々と新品種を開発していきます。そんな中、良い茶の木を選び出し藪の北側に植えたものを「やぶきた」南に植えたものを「やぶみなみ」と命名し栽培を始めます。すると「やぶきた」は病気に強く育てやすい上、バランスの良い味の茶葉を付けることが判明。
「やぶきた」は発表後に品質を認められはしたものの、戦争を挟んだため彦三郎の死後14年を経てようやく日本中に広まったのです。
地元の茶業振興に尽力する
杉山彦三郎の功績は、品種改良だけにとどまりません。
50代になり、ようやく「茶業中央会議所会頭の大谷嘉兵衛」という支援者を得て、試験地での品種改良事業に取り組みましたが、大谷氏が会頭の座を退くと茶業中央会議所から引き続きの援助は得られず、試験地を返上という窮地に立たされます。
しかし、77歳の彦三郎はこの窮地に屈しませんでした。
自ら購入した茶園で研究を続け、近隣の青年達に協力を要請し、自ら培った品種改良の知識や経験を後生に引き継ぐことに尽力します。また、近隣の農家にも惜しみなく知識を伝え、新しく機械が開発されればそれを導入していち早く製茶業の機械化を図り、地元の川の改修・茶園周辺の整備など郷土の茶業振興のために尽くしたのです。没してなお「彦三郎翁」と地元で慕われ敬われる理由はここにあります。
杉山彦三郎の情熱を物語る3つのエピソード
「イタチ」と呼ばれた男
良い茶の木を見つけるために、彦三郎は昼夜を問わず茶畑をうろつき、時には人の畑にまで入ったといわれています。地面を這いつくばって茶畑を動き回る姿から「イタチ」と嘲笑されても、理想の茶の木を探すことを止めませんでした。
「この木こそは!」と思う茶の木を見つけると、その茶葉を生のまま噛み吟味していたため、前歯が欠けていたという逸話も残っています。
持てる情熱を全て傾けて、理想の品種を追い求めたのです。
お茶のためならどこへでも
彦三朗の「良いお茶を見つけたい」という情熱は、とどまるところを知らず彼を動かしました。
交通手段が発達していない時代に日本国内はもちろん、韓国にまで茶の木を探しに出向いたのです。良い茶の木に出会ったときに持ち帰るため、旅には保水用の水苔を必ず持参し、時には野菜の切り口に枝を刺して持ち帰ったといわれます。
20年の苦労が全て薪にされても
支援者を失い、試験地を返上せざるを得なくなったとき、彦三郎は77歳。その試験地で20数年にわたり心血を注ぎ育てた茶の木は、全て抜かれ薪にされてしまいます。
77歳という高齢で、このような試練に遭ったにもかかわらず、今度は私財をなげうち研究を続け、後進を育てた彦三郎の情熱は執念ともいえます。
お茶栽培の素人であった杉山彦三郎が、生涯をかけて達成させた苦労や情熱を思うと、いつものお茶が味わい深く特別なものに感じられるのではないでしょうか。