ティーバッグと茶葉の違いについて
リーフで淹れたお茶と、ティーバッグで淹れたお茶どちらが美味しいと思いますか?
多くの人は茶葉から入れたお茶が美味しいと思っているようですが、実際のところはどうなのでしょうか。
ティーバッグと茶葉の違いって?
ティーバッグは分量を量って小分けされた茶葉がバッグに入っているもので、茶葉は何の加工もされていない状態の茶葉です。
茶葉は淹れる際に手間がかかりますが、その日の気分で茶葉の量を調整し、濃さなどを変えて飲むことができるのが特徴です。
ティーバッグは茶葉よりも手軽に簡単に淹れられ、洗い物などの片付けも楽で、持ち運びにも便利です。
ティーバッグは急須・ティーポットを使わず、茶器を持っていなくてもお茶を飲むことができるため、楽して美味しいお茶を飲むのに適した方法なのです。
使われている茶葉は同じ?
ティーバッグで淹れたお茶は茶葉に比べて味が落ちるというイメージを持つ人も多いようですが、実はそんなことはありません。ティーバッグの茶葉も、通常の茶葉と同じものが使われています。
ただし、ティーバッグの茶葉は細かく裁断されている場合が多く、このように通常の茶葉と比べて粒が細かく、粉末状になっているものが多いです。
しかも最近のティーバッグは形や素材にこだわり、より美味しいお茶が淹れられるよう工夫うされているものが多いので、ティーバッグのお茶の味の方が劣るということはありません。
ティーバッグでの美味しい淹れ方
ティーバッグを使ったお茶・紅茶の淹れ方をご紹介します。
飲みたい時にさっと飲めるティーバッグは、ただお湯を注ぐだけでも十分美味しいですが、いくつかポイントを抑えるだけで、さらに美味しいお茶になります。より美味しく飲みたい時はぜひ参考にしてください。
温度を意識する、煎茶は70〜80度
煎茶の場合はリーフと同じく、70〜80度のお湯で淹れるようにしてみてください。
お茶の苦渋味が抑えられ、旨味や甘味をより濃く感じられるお茶になります。
ただし、ほうじ茶など香ばしい系のお茶や紅茶は熱湯の方が香りがよく出るのでお茶の種類を確認しましょう。
参考記事:お茶の味わいと温度の関係
ティーバッグは揺らしすぎない
成分を出すためにティーバッグを上下に揺らしたり振ったりすることもありますが、ティーバッグは揺らしすぎると茶葉同士が触れ合って雑味が出やすくなるため、振るときは優しく4〜5回に収めます。
このようにお湯の中で立体的に広がるタイプのティーバッグの場合、バッグ内で茶葉がしっかりと対流するため、バッグを揺らす必要はほとんどありません。
お湯はティーバッグに直接かけない
上記と同じ理由です。お湯を注ぐ時はティーバッグに直接当てずにカップのふちから優しく注ぎます。
抽出時間は2~3分
お茶の種類や茶葉の状態によって抽出時間は変わるので、パッケージに書いてある目安時間を参考にしてください。
茶葉が細かい場合、お湯に触れる面積が大きい分抽出時間は短く済みますが、茶葉が自由に対流できないティーバッグの場合は少し長めに抽出をすることで、よりしっかりと味が出ます。
玉露の淹れ方
「お茶の王様」と讃えられる最高品質のお茶「玉露」は、高いものだと平均的な煎茶の20倍の価格がつくこともある、非常に価値の高い希少な高級茶です。
気軽に飲めるお茶ではありませが、せっかく飲むのであれば、ぜひ正しい淹れ方でその良さを存分に引き出して味わってください。
玉露の味わい・香り
玉露は一般的なお茶と比べて苦味が少なく、甘味・旨味が強くコクがあるまろやかな味わいです。香りが特徴的で、ほかのお茶にはない「覆い香」と呼ばれる青海苔のような独特の香りがします。感動するほどの美味しさは一度飲んだら忘れられません。
玉露を淹れる前に
まずは玉露を淹れる時に必要な道具などをまとめます。
使う道具
一般的な煎茶を入れる時とほとんど同じですが、せっかくの高級茶をじっくりと丁寧に淹れるために本格的な道具もご紹介します。
宝瓶(ほうひん)
持ち手のない急須です。玉露や上級煎茶など旨味をしっかり引き出して飲みたいお茶に使います。
玉露は低い温度でじっくり抽出するので、茶器が熱くならず、持ち手が必要ありません。
宝瓶は一般家庭にはなかなか置いていませんが、高級茶が多く生産されている宇治地方では広く普及しています。
宝瓶がない場合は普通の急須でも問題ありません。
湯冷し
沸かしたお湯を冷ます道具です。玉露は低い温度でじっくり抽出するので湯冷しを使い、温度を下げたお湯を使います。ない場合は急須にお湯をいれ、そのお湯を茶碗に注ぎ、また急須にお湯を戻し茶碗に注ぐ…を繰り返します。
茶碗(湯のみ)
玉露はごくごく飲むお茶というより、少量を味わいながら楽しむお茶です。
できれば小ぶりの茶碗(湯のみ)がいいでしょう。
もちろん、ない場合は普通サイズの湯のみやマグカップでも大丈夫。
茶さじ
茶さじを持っていない場合は、家にあるティースプーンや計量スプーンでも代用できます。お茶1杯分は約3グラム、ティースプーンだと山盛り1杯ほどです。
実は茶さじにはコレクターがいるほどさまざまなデザインがあります。もし持っていない方はお気に入りの茶さじを探してみるのも楽しいかもしれません。
これらがあれば玉露は淹れられますが、もしより美味しく淹れたいのなら鉄瓶を使うことをお勧めします。
鉄瓶は鉄でできた湯を沸かす道具で、この鉄瓶を使うことで中の水に鉄が混ざり、滑らかな口当たりになります。
また、玉露は温度調節が重要なので不安な人は温度計も用意したほうが良いでしょう。
使う水・温度
お水には軟水と硬水があり、お茶によって合う合わないがあります。
硬水は軟水よりもカルシウムとマグネシウムイオンを多く含むのですが、これらがお茶の苦味を抑えるので、お茶本来の味のバランスが崩れてしまいます。
お茶そのものの成分や味を引き出すのは軟水で、玉露など日本のお茶に合う水は軟水です。
日本の水道水は基本的に軟水なので水道水を使っても問題ありません。
お湯の温度は通常の煎茶より20度ほど低い、50度〜60度のぬるめのお湯でじっくり抽出します。
お茶と温度の関係を詳しく知りたい方はこちらをどうぞ。
玉露の淹れ方
玉露の淹れ方は以下の通りです。
宝瓶(急須)にお湯を入れる
沸かしたお湯を宝瓶に入れ、人数分の茶碗に注ぎます。
湯を冷ます
茶碗の湯を湯冷しに注いで湯の温度が50度〜60度に下がるのを待ちます。早く冷ましたい場合は、湯冷しから茶碗に湯を注いでまた湯冷しに戻すと早く温度が下がります。
宝瓶(急須)に茶葉を入れる
ひとり分につき3グラムが目安です。
玉露は最高級茶葉です。茶筒から茶葉をすくう際は茶葉が折れないように優しくすくいましょう。
宝瓶にお湯を注いで待つ
湯冷しのお湯を宝瓶に注ぎます。
茶葉がゆっくり開きますので、2〜3分ほど待ちます。
茶碗にまわし注ぐ
人数分の茶碗に少量ずつまわし注ぎます。最後は宝瓶を振って最後の一滴までしっかりと注いでください。
2煎目はすでに茶葉が開いているので1煎目より少しだけ高めの温度のお湯で淹れましょう。
1煎目とはまた違った味と香りを楽しむことができますよ。
烏龍茶(中国茶)の淹れ方
烏龍茶を茶葉から入れたことがある人は限りなく少ないかと思います。
飲むときもホットではなくてアイスで飲むことがほとんどですよね。
手間はかかるけど温かくて美味しい烏龍茶、自分で淹れてみませんか?
烏龍茶の味わい・香り
烏龍茶は水色が茶色で、緑茶や紅茶に比べると香りが特に香ばしく、ほんのり苦味があるのが特徴です。
後味がすっきりしているので、中華料理など脂っこいものや味の濃いものを食べた後に好んで飲まれます。
烏龍茶を淹れる前に
烏龍茶は他のお茶に比べて淹れるのに手間がかかり、あまり馴染みのない道具も必要です。
この記事では本格的な烏龍茶の入れ方や使う道具をご紹介します。
使う道具
烏龍茶を本格的に淹れるためには多くの茶器が必要です。
烏龍茶を本格的に入れようとすると下記のような茶器を揃える必要がありますが、家で手軽に淹れたい場合は、専用の茶器がなくても普段緑茶を入れる時に使う急須や湯のみなどがあれば淹れられるので安心してくださいね。
茶盤(ちゃばん)
烏龍茶(中国茶)は淹れるときに何度もお湯を注いだりこぼしたりするため、溢れたお湯を受ける台座のようなものです。
茶壺(ちゃつぼ)
お茶を入れる急須のことです。中国の急須は日本のものより小さなことが多いです。
また、湯のみに直接茶葉を入れて蓋をして蒸す「蓋椀(がいわん)」や、日本でも玉露などの上級茶を淹れる時に使うことがある取っ手のない急須「宝瓶(ほうびょう)」などの道具が使われることがあります。
茶杯(ちゃはい)
湯のみ(茶碗)のこと。茶杯は中国茶を飲むときに使われる小ぶりの湯のみです。
中国茶は味がしっかりしているものが多く、ガブガブ飲むというより、少量をじっくり飲むためサイズが小さく作られています。
茶船(ちゃぶね)
茶壺(急須)や茶杯(湯のみ)にお湯をかけて温める際の受け皿の役割をします。
茶海(ちゃかい)
茶海はお茶の濃度などを均等にするための道具で、紅茶でいうサーブ用ポットのようなものです。
茶荷(ちゃか)
茶葉を急須に入れるときに使います。茶さじと同じ役割で、なければスプーンで代用できます。
茶鋏 (ちゃばさみ)
茶海(湯のみ)をつかぬときに使う道具で、トングのようなものです。
さらに本格的に淹れたい人は、お湯を沸かすときに鉄でできた鉄瓶という道具でお茶を沸かすと、鉄瓶の鉄がお湯に混じり、まろやかな味になるのでおすすめです。
使う水・温度
紅茶や緑茶は水の性質によって味に影響が出ますが、烏龍茶はほかのお茶に比べ影響を受けにくいので軟水でも硬水でも問題ありません。
使うお湯の温度は高温で95度〜100度がベストです。緑茶は温度が高すぎると苦味が出ますが、烏龍茶にはその心配がなく、高温で淹れることでしっかりと香りが出ます。
お茶の温度について詳しく知りたい方はこちらをどうぞ。
烏龍茶の淹れ方
まずは烏龍茶の本格的な淹れ方をご紹介します。
茶器を温める
茶船の中に茶壺と茶杯を入れ、茶壺と茶杯にまんべんなくお湯をかけて温めます。
茶盤に移す
温まった茶杯を茶盤の上に移動させます。茶杯は素手ではなく茶鋏を使って1つずつ移します。
茶壺に茶葉を入れる
茶葉は茶壺の底が見えなくなるくらいの量を目安に入れます。
洗茶をする
熱湯を茶壺にいっぱいいっぱい注ぎ、すぐにそのお茶を茶海に移します。
そして茶海のお茶を茶杯に注ぎます。この時、茶壺にお湯が残らないよう最後の一滴までしっかり注ぎきってください。
烏龍茶の茶葉は硬く乾燥しているので、洗茶をすることで硬い茶葉をほどき、お茶の成分や香りを抽出しやすくします。
茶壺に熱湯をなみなみ注ぐ
茶壺に再度熱湯を注ぎます。溢れるくらいたっぷり注いでください。
アクを取る
茶湯の表面に泡(アク)が出てくるので、それを茶壺の蓋で擦るように取ってそのまま蓋をします。
茶壺を温める
先ほど茶杯に入れていたお茶を茶壺にまわしかけて温めます。
お茶を茶海に移す
だいたい1分ほど(素焼きの茶壺なら表面の水分が渇いたのを目安に)経ったら、茶壺をクルッと1回まわして底に付いた水分をきり、一度茶海に入れてお茶の濃さを均一にます。
この時、最後の一滴までしっかり出しましょう。
お茶を淹れる
茶海のお茶を茶杯にまわし注げば完成です。熱々のうちにどうぞ。
以上が本格的な烏龍茶の淹れ方です。
家にあるもので簡単に淹れたい場合は、お湯の温度や茶葉の量はそのままに、急須と湯のみにお湯をかけて温めた後、急須に茶葉を入れ、お湯を入れて1分蒸して湯のみにまわし注ぎます。
緑茶を入れる時とほとんど一緒ですが、烏龍茶は熱湯を使うことが重要です。
紅茶の淹れ方
緑茶と比べると紅茶を茶葉から淹れる人は少ないのではないでしょうか。
ティーバッグの紅茶も十分に美味しいですが、自分で1から入れた紅茶の味は格別ですよ。
ぜひ美味しい紅茶でいつもよりワンランク上の贅沢なティータイムお過ごしください。
紅茶の味わい・香り
紅茶は、緑茶やウーロン茶に比べて華やかで優しい香りと味わいを持ち、水色も濃い赤色です。
種類によって、クセの強いものから、あっさりとした万人受けするものまで味の幅が広く、はっきりと味の違いがわかるのも特徴です。
紅茶を淹れる前に
紅茶は極論、ティーストレーナーとマグカップがあれば淹れられますが、もし紅茶を本格的に淹れるとなると以下の道具が必要です。
使う道具
ケトル
お湯が沸かせるものなら、鍋ややかんでも大丈夫です。
しかし、紅茶は使うお湯が重要で、酸素を多く含んだお湯を使うことでより美味しい紅茶になります。短時間で素早く沸かすことで水の中の酸素が失われにくくなるので、手早く沸かせるケトルがおすすめ。
中でも銅のケトルは熱伝導がよく、紅茶大国・イギリスでも紅茶を入れる際には銅のケトルを使う人が多いそうです。
ティーポット
美味しい紅茶を入れるために最も重要な過程である「ジャンピング」はこのティーポットにかかっています。
ジャンピングとは、ティーポットの中で茶葉が上下に動くこと。ジャンピングによって茶葉が開き、紅茶の旨味などの成分が抽出されます。
茶葉がジャンピングしやすい丸型のティーポットがおすすめです。
ティーカップ
可愛いデザインがたくさんあるのでぜひお気に入りのティーカップを見つけてください。
ティーカップがない場合はマグカップや湯のみでも大丈夫です。
ティーストレーナー
急須のように茶こしが付いているティーポットもありますが、茶こしが付いていない場合はティーストレーナーが必要です。目が細かいものを選びましょう。
これに加えて、あるとより良いこだわりの道具もご紹介しましょう。
鉄瓶
お湯を沸かす道具で、鉄でできているので直火で沸かすことができ、さらにお湯に鉄分が混ざりまろやかな口当たりになります。
サーブ用ポット
2杯3杯と飲むときは、お茶が抽出されすぎないようにサーブポットを使うと良いでしょう。特にお客様に出すときは見た目も華やかになります。
ティーメジャー
茶葉を計るスプーンのことで、「茶さじ」「キャンディースプーン」「ドザール」などいろいろな呼び方があります。
もし持っていなくてもティースプーンで代用できます。ひとり分だと茶葉はティースプーン1杯ほどです。
使う水・温度
お茶の中でも紅茶は特に水の影響を受けやすいお茶だといわれています。
水には「軟水」と「硬水」がありますが、紅茶に合うのは軟水です。ちなみに日本の水道から出るのは基本的には軟水で、しかも日本の水道水は特に紅茶と相性がいいそうです。
硬水はタンニンの抽出を抑えて苦味が出にくくなりますが、軟水は茶葉の持つ成分をそのまま引き出してくれます。
また紅茶は緑茶に比べて高温の90度〜100度のお湯で淹れます。
紅茶の淹れ方
紅茶の美味しい入れ方をご紹介します。
お湯を沸かす
ボコボコと大きく沸騰するまで沸かします。
ポットとカップを温める
沸騰させたお湯をポットとカップに注ぎ温めて、そのお湯は捨てます。
茶葉をポットに入れる
茶葉の目安は1杯あたり2.5〜3グラムほど。ティーメジャーがない場合はティースプーンを使います。ティースプーンだと中盛り〜山盛り1杯でひとり分です。
お湯を注ぐ
沸騰したお湯を注ぎます。1杯あたり150mlくらいが目安です。この時にティーポットの中で茶葉が上下に動く「ジャンピング」をします。ジャンピングによって美味しい紅茶ができますが、わざとお湯を勢いよく注いで無理にジャンピングさせる必要はありません。普通に注いでください。
時間を計ってしっかり蒸らす
時間は紅茶によって変わるので紅茶が入っていたパッケージに書いてある時間を確認してください。抽出時間によって成分がしっかり抽出できなかったり、苦渋味が強くなったりするので時間は正確にはかりましょう。
目安としては、細かい茶葉で2分半〜3分、大きい茶葉で4分〜5分ほどです。
紅茶を注ぐ
ティーストレーナーを使ってカップ注ぎます。まわし注いで濃さが均等になるようにしましょう。
世界のお茶の歴史|ケニア
コーヒーの生産地としても有名な赤道直下の国・ケニア。そして実は、ケニアは世界有数のお茶の生産国でもあります。
今回は、そんなケニアのお茶作りの歴史をご紹介していきます。
ケニアのお茶の歴史
ケニアは、インドやスリランカと同じく、イギリスの植民地となっていた国でした。そんなケニアでのお茶の歴史は比較的浅く、お茶の栽培がはじまったのは1900年代初頭でした。
ケニアの茶栽培の発祥
初めてイギリスからケニアにお茶が持ち込まれたのは1903年。当時栽培されていたのは、インド原産のアッサム種でした。
ケニアは土壌が豊かで、気候条件も茶の栽培に適していたため、当時有望な茶の栽培地として期待を集めていました。
ただし、ケニアで商業的なお茶の栽培が開始したのはイギリスから独立した後。というのは、植民地時代、ケニアでは個人が自由に紅茶を栽培することが許されていなかったからです。
そしてイギリスからの解放後、わずか50年ほどでケニアの茶産業は急成長を遂げ、インドやスリランカに次ぐ世界有数の紅茶の生産地となりました。
ケニアのお茶作りの現在
現在、ケニアのお茶の栽培面積は14万ヘクタールほどあり、32万トンもの年間生産量を誇ります。
また、茶栽培の製造や流通産業を含めると、お茶作りに携わる人々の数は、なんと人口全体の1割に当たる約400万人ほどだそうです。
ケニアが現代においても世界有数のお茶の産地であり続ける理由がよく分かります。
東アフリカへの拡大
ケニアのお茶産業が成功するとともに、ウガンダやタンザニア、マラウィやモザンビークといった東アフリカ諸国へお茶作りは広まっていきました。
それらの国々の最大の輸出国は、イギリス。
たとえば、マラウィで生産されるお茶の90%、モザンビークのお茶の80%がイギリス向けに輸出されています。
日本茶の歴史|明恵上人
明恵上人は、僧侶として素晴らしい功績を残したその一方で、栂尾の茶栽培の基礎を築いた人でもあります。そんな明恵上人についてご紹介します。
僧侶・明恵上人
明恵上人は、幼い頃に両親を亡くし仏門に入り、華厳宗・真言密宗などを次々に学び将来を嘱望された僧侶でした。34歳の時には、後鳥羽上皇より京都栂尾の地を賜り、高山寺を開きます。明恵上人は、宗派にこだわるよりも仏陀の説いた戒律を守ることが最も大切と考え、身をもって実践しました。また、戦で身寄りを失った女性など、弱い立場の人々の救済を積極的に行います。その姿に感銘を受けた多くの人々に支持されながら修行に励み、59歳で亡くなりました。
京都の茶の始祖・明恵上人
栄西との出会い
宗派にこだわらず大乗仏教を学んでいた明恵上人は、禅を学ぶために栄西の元を訪れます。その時に禅だけで無く中国で学んだ「茶」について、栄西が明恵上人に伝授しました。禅の修行における茶の活用法・茶の効用・栽培方法・栽培に適した土地について等、栄西は自分が学んだ茶にまつわる知識を明恵上人に伝え、喫茶を推奨しました。ちなみにこの時代、茶は点茶法で飲まれていました。今の抹茶と同じように石臼で挽いて粉にしたお茶を茶筅で点てる飲み方です。
栄西から届いた茶の種
京都栂尾に帰った明恵上人に、栄西から漢柿蔕茶壺(あやのかきへたちゃつぼ)に入った茶の種が届きます。明恵上人はさっそく茶の栽培を始めると同時に、修行に励む僧侶にも茶の効用を説き、積極的に喫茶を広めていきます。
一粒の種から茶園へ
明恵上人が始めた栂尾の茶栽培は、その後約2世紀にわたり栄えることとなります。栂尾は茶の栽培に適した土地であったため、良質の茶が生産できたのです。当時は、その質の高さから栂尾産の茶を「本茶」その他の産地の茶を「非茶」と呼ばれるほどの人気でした。高山寺では、明恵上人の功績に感謝を捧げ新茶を献上する「献茶式」が毎年11月に行われています。
栂尾から宇治へ
栄西から茶の栽培に適した土地・気候について教えを受けた明恵上人は、茶の栽培を宇治へと広めました。「朝ぼらけ 宇治の川霧たえだえにあらわれ渡る 瀬々の網代木」と歌にあるように、川霧が立ち涼しい気候の宇治は、茶の栽培に適した土地だと判断したからです。その判断は正しく、後に宇治の茶は「天下一の茶」として全国にその名を轟かせるようになります。宇治の万福寺の山門には、「栂山の尾の上の茶の木分け植えて 跡ぞ生うべし駒の足影」と刻まれた石碑があります。栂尾で育てた茶の木を分けてもらった宇治の人々が、植え方が分からずにいたところ、明恵上人が馬に乗ったまま畑へ入りその足跡へ茶の木を植えるよう教えたとされる逸話が歌になり残っているのです。
茶十徳
明恵上人は湯釜の側面に「茶十徳」と呼ばれる、10個の茶の効用を刻みました。
諸天加護
強い根を張り一年中緑を保つ茶の生命力が、飲む人を守ります。
無病息災
茶を飲むことで病にかかることなく元気に過ごせます。
父母孝養
茶の深い味わいは心を整え、父母への感謝の心を育てます。
朋友和合
喫茶の習慣が親しい間柄の語らいを生み、関係性を深めます。
悪魔降伏
茶の成分が心身の疲労を解消し、心の迷いまでも取り払います。
正心修身
喫茶の礼節や作法には、精神修養の効果があります。
睡眠自除
茶が眠気を払います。
煩悩消滅
茶を飲むことで、煩悩が消滅します。
五臓調和
茶を飲むことで内臓の調子が整います。
臨終不乱
茶飲む人は心身共に整っているので死に臨んでも取り乱すことがありません。
このように、現在も知られている茶の覚醒効果や心を静める効果が、当時から認識されていたことが分かります。天皇初めたくさんの人々に慕われ尊敬された明恵上人の人柄に、茶の効用が影響を与えていたと明恵上人自身が認識していたとも考えられます。
日常生活の中に今まで以上に茶を取り入れ、茶の持つ10の恩恵にあやかってみませんか。
日本茶の歴史|売茶翁
千利休が侘び茶の祖と称されるのに対し、煎茶の祖と呼ばれるのが売茶翁(高遊外)です。煎茶を広めると同時に、当時の文化人に多大な影響を与えた売茶翁の生涯をご紹介します。
売茶翁とは
売茶翁の愛称で知られる高遊外(1675~1763)は蓮池藩(現佐賀県)の藩医の下に生まれ、黄檗宗龍津寺の化霖和尚の下で僧「月海元昭」となります。
50年近く修行に励んだ売茶翁でしたが、堕落した仏教界に失望し、僧をやめ京都に移り住みます。「茶亭・通仙亭」を開いた売茶翁は、風光明媚な場所に出向き茶を売る「移動販売」のようなこともしていました。
彼のもとには、その人柄に魅せられた文化人が集うようになり、この時から「売茶翁」と親しみを込め呼ばれるようになります。その後、僧侶としての名を捨て「高遊外」と名を変え売茶を続けますが、高齢となり体力の衰えを感じ売茶業を廃業し、89歳で生涯を閉じました。
エピソードから見る売茶翁
「高遊外」の由来
売茶翁は僧として「月海元昭」の名を持っていました。ある時、現在の暮らしぶりについて聞かれ「こういう具合に暮らしています。」と答えたところ、「こう優雅に暮らしています。」と聞き間違えられてしまいます。それを面白く思った売茶翁は「こう優雅に」の部分をもじり「高遊外(こうゆうがい)」と名乗ったといいます。
茶の良さを知ってもらうことが第一
通仙亭の看板には「茶銭は黄金百鎰より半文銭までくれしだい、ただにて飲むも勝手なり、ただよりほかはまけ申さず。」と書かれていました。
その意味は、「お茶代は、小判二千両(現在の一億円以上)から半文(現在の約30円)までいくらでもくれるだけ。 ただで飲んでも結構です。ただより安くはできません。」というものでした。
この文言からは、茶を飲んでもらい、茶の良さを知ってもらうことを第一に考えた売茶翁の姿勢が読み取れます。
新しいスタイルの「煎茶」を広める
売茶翁は、権力と結びつき形ばかりとなった当時の茶の湯を良しとせず、唐の陸羽(りくう)や廬同(ろどう)の「清風の茶」の世界を理想としました。
余計な作法や物を取り払い、シンプルに茶を楽しむ売茶翁の煎茶のスタイルは、庶民にまで広まっていきました。
最先端の文化人が憧れた売茶翁
江戸が日本の中心になった時代とはいえ、京都は依然、文化の最先端を行く大都市でした。
そんな地で売茶翁は、文化人達から絶大な人気を得ます。
売茶翁の教養の高さ、信念のもと自由に生活するスタイル、ウイットに富んだ語り口が人々を魅了したのです。その生き方や思想に影響された人の中には、伊藤若沖・与謝蕪村・渡辺崋山・松平定信・田能村竹田など、現在にも名を残す錚錚たる人物達がいたのです。
茶道具を自ら燃やす
売茶翁は高齢となり売茶業を廃業後、大切にしていた茶道具を自ら焼いてしまいます。それは、清貧の道を共に過ごした茶道具への愛情からでした。
「貧しく頼る人もいない私を支えてくれたのは、おまえ達(茶道具)だ。しかし、もうおまえ達を使うことができない。私が死んで、おまえ達が俗物の手に渡り辱められたら、私を恨むだろう。だから火葬にしてやろう。」と、売茶翁は、その気持ちを書き残していています。
茶道具への深い愛情が伝わるエピソードですが、茶道具が燃やされたことで「売茶翁の茶のスタイル」が後世に残らなかったことは大きな損失となりました。
売茶翁の目指した「茶」
売茶翁は浮世離れした仏教界から離れ、自活しながら精神的な高みを目指すことを選びました。その自活のための手段が「売茶」だったのです。そして、形骸化した茶の湯の世界に反発心を抱いた売茶翁が選んだ茶は「抹茶」ではなく「煎茶」でした。
売茶翁は、売茶の場を「サロン」にすることを目指したのではないでしょうか。事実、売茶翁の下には庶民から文化人まであらゆる人々が集い、茶を楽しむと同時にお互いを高め合う議論や交流が盛んに行われました。その中には、先にご紹介した名立たる画人・文人がいることを考えると、売茶翁の目論見は見事成功したといえるのではないでしょうか。
日常の雑事から離れ親しい人と談笑し茶を楽しむ時間の中に、売茶翁が追求めた人生の喜びや本質が見えてくるのかもしれません。
世界のお茶の歴史|インド
世界有数のお茶の生産地であるインド。しかしその歴史はイギリスの植民地政策を背景にして築かれたものでした。
ここでは、そんなインドのお茶の歴史をご紹介していきます。
インドのお茶の歴史
インドといえば、ダージリンやアッサムといった、世界有数の紅茶の原産地として有名です。ここでは、そんなインドにおけるお茶の歴史を時系列順にご紹介していきます。
東インド会社の貿易独占とアヘン戦争
インドにおけるお茶の歴史を理解するためには、まず当時のイギリスの状況について触れておく必要があります。
17世紀ごろ、オランダ人がヨーロッパにお茶をもたらして以来、イギリスでは手軽に楽しめる嗜好品としてお茶が一大ブームを巻き起こしていました。当時のイギリスでは、宮廷の貴族から一般庶民まで、幅広い層の人々の間でお茶が楽しまれていたようです。
その人気ぶりは、お茶が原因となって2度も戦争が起こったほど。
1度目は、オランダが中国茶の交易権を独占していたことに対する反発から起こった、「英蘭戦争」。
これに勝利したイギリス東インド会社は、中国からお茶を輸入する独占交易権を手に入れます。
ただし、その後もイギリス国内での茶の需要は急増し、お茶を輸入していた中国との間に著しい貿易の不均衡が生じます。そして、それがきっかけとなって「アヘン戦争」が引き起こされることになりました。
もはや中国からの輸入のみで茶の需要をまかなうことに限界を感じたイギリスは、自国の植民地であるインドでお茶の栽培を行うことを決意します。
アッサム種の発見とプランテーション農業の展開
イギリスがインドにおけるお茶の栽培に踏み切ることができた理由は、19世紀にインドで「アッサム種」という新しいお茶の品種が発見されたことでした。
イギリスはそれまでにも中国産のお茶をインドに移植することを試みていたのですが、中国種はインドの気候と合わず、挫折を繰り返していたのです。
そのような中、インドの気候に適したアッサム種が発見されたことにより、各地で大規模なプランテーション農業が展開されていくことになりました。また、お茶の栽培がインドで進んでいくにつれて、1841年にはダージリン地方で中国種が育つことが発見されます。2つの種類のお茶を生産できるようになったインドはその輸出量を急激に伸ばし、紅茶大国として名を馳せるようになっていきました。
現代でも有名な紅茶の銘柄である「アッサム」や「ダージリン」は、このようなイギリスの植民地支配を背景として誕生したものだったのです。
チャイ発祥の地
イギリスの植民地政策によって世界有数の紅茶生産国となったインドでしたが、良質な紅茶はあくまで「輸出用」の商品であり、インドの人々が口にすることはできませんでした。
そこでインドの人々の間で常飲されるようになったのが「チャイ」です。
チャイは、元々お茶の葉のカスを原料として作られていたものですが、お茶の葉のカスはそのまま淹れると苦味が強く、飲むことができません。そこで、インドの人々はそのお茶の葉のカスから挿れたお茶に、砂糖やミルクを混ぜ合わせることで味を整えて飲んでいました。
こうして生まれたチャイは次第にインド人の間で人気を博し、国民的な飲み物となっていったのです。
現代では、チャイはスターバックスコーヒーのメニューなどにも取り入れられ、インドのみならず世界中で愛される飲み物となっています。
世界のお茶の歴史|台湾
近年、タピオカミルクティーのブームなどで注目が集まっている台湾。 そんな台湾は、烏龍茶や紅茶など、世界有数の高品質なお茶の産地でもあります。
今回は、そんな台湾のお茶の歴史について詳しく解説していきます。
台湾のお茶の歴史
ここでは、台湾のお茶の歴史を時系列順に見ていきましょう。
台湾のお茶の発祥
そもそも台湾にお茶が伝わったのは、台湾が清朝支配下にあった1796年ごろだと言われています。中国の柯朝という商人が、福建省の烏龍茶の苗木を台湾に持ち込んだのが台湾茶のはじまりでした。
また、1862年には福建省の指導者によって製茶法が伝わり、中国式のお茶づくりが始まります。
台湾茶の拡大
台湾茶は、英国人であるジョン・ドットのサポートによって急速に拡大していきました。
1865年、彼は台湾の淡水に「寶順洋行」という貿易会社を設立し、中国の福建省から茶苗や種を大量に持ち込んだのです。そして、それを各地の農民に貸し付け、収穫後に再度茶葉を買い取るというシステムを築き上げました。
さらに、1866年には中国の福建省を通じて、台湾の茶葉がアメリカやオーストラリアに輸出されることに。
品質が良く、特にアメリカで人気を博した台湾のお茶は、1969年には「Formosa Tea」(麗しの島のお茶)という名前で輸出されるようになります。
また、1972年にはイギリスへの輸出を開始するなど、台湾茶は徐々に販路を拡大していきます。
日東紅茶の影響
日本で古くから親しまれている国産ブランドとして有名な「日東紅茶」。しかし、実は日東紅茶は当初台湾で製造されていたものでした。
ここでは、戦時下の日本が台湾の茶業に与えた影響について述べていきます。
台湾茶業の推進
1895年、日清戦争で日本が勝利したことにより、台湾は日本の統治下に置かれることになります。
そして、1903年には統治政策の一環として紅茶に関する試験場を設置することになり、台湾の中で茶業がさらに推進されていくことになりました。
三井合名会社の進出
三井合名会社は、日本による統治がはじまってすぐに台湾へ進出した企業のひとつでした。
1908年には台湾支社を設立し、イギリス方式の大量生産方式を導入します。
台湾茶業の中核を担っていた三井は、大寮や大渓、苗栗などに次々と茶工場を設置。
1924年になると本格的な茶製造を開始し、台湾内地で缶詰の「三井紅茶」(のちに「日東紅茶」に改名)を販売するに至ります。
その後、「日東紅茶」は日本の中流以上の家庭でも消費されるようになり、徐々に国産紅茶ブランドとしての認識が浸透していきます。
そして、日本の占領から解放後、茶業の設備や資本などは全て台湾農林が接収することになりました。
もちろん戦争による支配は許されることではありませんが、このように三井の行なった事業が現在の台湾の茶業の基盤となっていることは事実です。
現代
現在も台湾では茶業が盛んに行われており、烏龍茶のほか、紅茶が世界中で高い評価を受けています。台湾の紅茶は標高600〜800mの傾斜地で栽培されており、山間部が生む独特の香りを楽しむことができるからです。
また、豊富な種類の紅茶を楽しめるのも台湾茶の魅力のひとつ。 現在では以下のような様々な種類の紅茶が栽培されています。
- 台茶7号、台茶8号(ミルクティーに適した味)
- 台茶18号(シナモンやミントの香り)
- 台茶22号(フローラルの香り)
- 台茶23号(レモンや柚子のようなさっぱりした香り)
この中で、台茶18号は欧米の人が、台茶23号は若年層が好む味というように、それぞれのターゲット層が異なっているのが特徴です。
今後も新たな客層を取り込むための品種開発が行われていくことが予想されるので、台湾の茶業はますます発展していきそうです。
世界のお茶の歴史|欧米
お茶は欧米でも人気の嗜好品であり、過去にはその輸出入を巡って戦争が起きるほどでした。
この記事では、お茶の伝来から現代のお茶の消費習慣まで、欧米におけるお茶の歴史を詳しく解説していきます。
欧米のお茶の歴史
お茶の伝来
お茶が中国からヨーロッパに伝わったのは1610年のこと。オランダの「東インド会社」が持ち帰ったのがきっかけです。
ヨーロッパといえば紅茶のイメージがありますが、最初に伝播したのは紅茶ではなく、緑茶でした。
ただし、お茶が伝わった当初は非常に高級品であったため、上流階級のみが楽しむ嗜好品として位置付けられていました。
そして、お茶はオランダからイギリスにも伝わり、貴族の間で一大ブームを巻起こすことになります。
東インド会社の拡大と衰退
オランダの東インド会社は、東南アジアや中国、日本などの交易を独占するなど、他のヨーロッパ諸国に対して排他的な貿易を行なっていました。
そのため当時のヨーロッパでは、お茶などの東アジア・東南アジアの商品を、オランダを通すことでしか手に入れることができませんでした。
貿易を独占した東インド会社は大きな利潤をあげているように見えましたが、やがて会社内部の不正や、お茶を巡るイギリスとの戦争によって徐々に勢いが衰えていきます。
さらに、18世紀に入るとさらにイギリスの力が増し、オランダはやむを得ず東インド会社の解散を言い渡すことになります。
アヘン戦争とプランテーションの始まり
オランダから伝わったお茶は、18〜19世紀にはイギリスで大きなブームとなりました。そしてヨーロッパ最大のお茶消費国となったイギリスは、中国から大量の茶を輸入することに。
当時、イギリスはお茶の対価として銀を支払っていたのですが、次第に貿易の不均衡は著しくなり、イギリスからの銀の流入量が非常に大きくなってしまいます。それに不満を抱いたイギリスは、その対抗策として中国にアヘンを売ることにしました。
結果、中国ではアヘンが蔓延し、国内の治安や風紀が大いに乱れます。中国王朝はアヘンの輸入禁止や密貿易の取り締まりに乗り出しますが、イギリスは武力でそれに対抗し、「アヘン戦争」が引き起こされました。
アヘン戦争の戦勝国となったイギリスは、没収したアヘンの代価や多額の賠償金を中国に対して請求。支配的な存在であった中国は没落し、イギリスはその国際的な地位を高める結果となりました。
プランテーションのはじまり
当初は自国で消費するほとんどのお茶を中国からの輸出に頼っていたイギリスでしたが、1830年代には植民地であるインドで茶の栽培を始めています。
その理由は、インドのアッサム地方で茶の木が発見されたからでした。
現代でも人気な紅茶の品種、「アッサムティー」の名前の由来はこのインドの地名から来ています。 その結果、1839年にはロンドンのオークションで最高値がつくほど上質なお茶が、インドで栽培されるようになりました。
そして、プランテーション方式でお茶を生産する、「アッサム株式会社」がイギリスの後援で発足することになったのです。
なお、プランテーションが展開された地域はアッサム地方のほか、ビハール州やベンガル州など多岐に渡ります。特に、西ベンガルのダージリンで栽培されている紅茶は現代でも非常に人気です。
現代のお茶の消費習慣
歴史的に見ると、欧米におけるお茶はその輸出入を巡って戦争が起きるほど愛された飲み物でした。
現代でもお茶が人気なことは変わらず、世界におけるお茶の消費量トップ10を見ると、イギリスやアメリカなどの欧米諸国もランクインしていることがわかります。
また、元々は単なる嗜好品であったお茶ですが、近年では違った角度からお茶を捉える動きも少しずつ広がっています。
たとえば、アメリカではその健康効果が話題を呼び、スターバックスコーヒーなどでも玉露や煎茶の取り扱いが行われているのは有名な話です。
日本からアメリカへのお茶の輸出量が2000年から2014年にかけて6.5倍に増えていることからもわかるように、すでにその健康食としての消費習慣は多くの人に根付いていると言えるでしょう。
このように、お茶は時間や国境を超え、世界中で愛され続けている飲み物の一つなのです。
世界のお茶の歴史|中国
お茶の生産量・消費量ともに世界第一位のお茶大国・中国。お茶の発祥の地でもある中国の茶の歴史は、そのまま世界のお茶の歴史と言っても過言ではありません。
今回は、そんな中国におけるお茶の歴史を時系列に沿ってご紹介していきます。
中国のお茶の歴史
唐時代(618〜907年)
お茶を飲む習慣は今からおよそ1300年前、唐の時代に中国全土に広がりました。
当時のお茶は非常に高級品で、庶民はお茶を飲むことができず、主に皇帝への献上品や貴族階級が飲むものとしての認識が一般的でした。
この頃のお茶の主流は「餅茶(びんちゃ・へいちゃ)」という固形茶だったと言います。
餅茶は、蒸した茶葉を圧縮して乾燥させたもので、飲む際はその塊からお茶を削り、塩を入れた湯で煮てから飲みます。当時の技術では、運搬中に湿気を吸ってしまうなど、大量に運ぶには固形の方が適していたため、この形が主流でした。
ちなみに、遣唐使などを通じて日本に初めて伝来したのもこの餅茶です。
『茶経』
同じく唐の時代、世界最古の茶書である『茶経』が執筆されます。
『茶経』を著したのは、文人であり茶道の元祖とも言われる陸羽という人物。茶の起源や製造法、茶道具、歴史、産地など、茶にまつわるあらゆることが記されています。
また、ここではお茶は単なる飲料としてではなく、「行いが優れており、人徳のある人物が飲むべきものである」と説かれています。
宋時代(960〜1279年)
宋の時代になると、お茶は貴族のみならず、役人や文人などの富裕層にも飲まれるようになります。まだまだ一般市民に普及するような消費財ではありませんでしたが、詩や書など、当時の文化と密接に結びつき始めたのはこの時代です。
この時代、唐代に主流だった餅茶の製造法がやや複雑になり、「片茶・団茶」と呼ばれるようになりました。
また、日本では鎌倉〜室町時代に行われていた「闘茶」の文化が盛んになったのもこの頃です。
闘茶とは、お茶を飲み比べることで産地や良し悪しを判別する一種のゲームのこと。日本では次第にゲーム性が増していき、賭け事を行ったり酒食を持ち込んだりするようになり、過激になりすぎた闘茶は足利尊氏の時代に禁止されたほど。
中国ではあくまで高尚な遊戯として広まり、茶文化の発展に寄与しました。
茶器の発展
茶が富裕層に広まったほか、お茶を淹れる・飲むための茶器がお茶を楽しむための重要な道具として認識されはじめたのも宋の時代のことです。
茶の色を楽しむための白磁や、器自体の色を楽しむ青磁などを作る技術が発展していきました。
明時代(1368〜1644年)
明の時代には、お茶がさらに民衆の文化に浸透し、富裕層だけではなく庶民もお茶を飲むようになります。
この時代、団茶は製造に手間がかかる上、品質それほど高くなかったことから、臼などで茶葉を細かく砕いて作られる「散茶」というお茶が主流になっていきました。
殺青の方法も、これまでの蒸し製から釜炒り製へと変化し、お茶の形と味わいが大きく変化したのもこの時代のことです。結果としてこの散茶が、団茶と比べて味も香りも大きく向上したため、広く普及したと言われています。
また、明代までの急須は鉄や銀製のものが主流でしたが、この時期には陶製の急須が作られて用いられるようになりました。
清時代(1616〜1912年)
清時代は、中国の歴史の中でお茶が最も栄えた時代です。茶葉や茶器はほぼほぼ完成し、現代と変わらない品質のお茶が飲まれていました。
現代でも馴染み深い烏龍茶が福建省で開発されたのもこの時代です。
また、茶器にこだわり、ゆっくりと時間をかけてお茶を楽しむ文化も生まれました。
多様な茶の楽しみ方の形成
清の時代は、お茶の楽しみ方が多様になった時代でもありました。
各地で特色ある銘茶が生まれ、市場では六大茶(青茶・黒茶・緑茶・紅茶・白茶・黄茶)が販売されていました。
また、浙江や江蘇の人々は緑茶を、北方の人々は花茶を好んで飲むというように、地域ごとに好まれるお茶も異なっていたようです。
イギリスに対する紅茶の輸出
清時代の特徴として、紅茶を大量に輸出していたことが挙げられます。
特に清朝によって1685年にヨーロッパ諸国の通商が許可されてからは、対外向けに大量の紅茶が輸出されることになりました。その最大の貿易先となったのがイギリスで、清にとって紅茶は銀を獲得するための大きな手段となっていました。
ところが、イギリス側が大量のお茶を輸入していたのに対し、中国側はそれほどイギリスからの輸入を行わなかったため、著しい貿易の不均衡が発生。そこでイギリスはアヘンを中国に売りつけることで銀の回収を試み、それがきっかけとなって「アヘン戦争」が勃発することになります。
このように、当時の中国はお茶によって国内の情勢が左右されるほどの産出量を誇っていたのです。
現代
現代の中国におけるお茶は「国飲」として位置付けられており、国民的な飲み物として親しまれています。
その生産量・消費量はともに世界一で、現代の中国はまさに「お茶大国」と言えるでしょう。
また、大阪観光大学観光学部の王静氏によれば、「中国で最も飲まれているのは烏龍茶やジャスミン茶ではなく、緑茶だ」とのこと。
中国の緑茶は日本の蒸し製のお茶とは異なり、釜炒り製法で作られるため、日本よりもすっきりとした味わいになっているのが特徴です。
世界のお茶の歴史|スリランカ
世界的に有名な紅茶、「セイロンティー」の発祥の地でもあるスリランカ。
この記事では、そんなスリランカのお茶の歴史をご紹介していきます。
スリランカのお茶の歴史
スリランカのお茶作りの歴史は、インドやケニアと同様、イギリスの植民地政策によってはじまりました。ここでは、そんなスリランカにおけるお茶作りの歴史を、時系列に沿ってご紹介していきましょう。
かつてはコーヒーの名産地?
今でこそ有名な紅茶の生産地として知られているスリランカですが、元々は世界有数のコーヒーの産地として知られていました。当時ヨーロッパで大きな力を持っていたオランダが、1658年から植民地政策の一環としてスリランカでコーヒー栽培を行っていたからです。
コーヒーは降水量や日照時間が多い場所でしか育たない作物なので、熱帯性気候のスリランカは栽培地としてうってつけでした。
その結果、スリランカでのコーヒー生産量は急増し、19世紀にはコーヒーの輸出量が世界1位に躍り出るほどの名産地へと成長していきました。
コーヒー農業の終焉と紅茶生産のはじまり
当初オランダによって統治されていたスリランカでしたが、1802年には支配国がイギリスへと変わります。
その後もスリランカでは盛んにコーヒー農業が行われていましたが、1868年に「サビ病」がコーヒー園に蔓延することに。サビ病は、葉にオレンジの斑点ができるカビ由来の伝染病の一種で、サビ病にかかった植物は最終的には枯れてしまいます。
このサビ病によって壊滅的な被害を受けたコーヒー産業は衰退し、代わりに当時イギリスで大流行していたお茶が生産されるようになりました。
当初スリランカに持ち込まれたお茶の種類は、19世紀にインドで発見されたアッサム種。インドではそのころ、スリランカと同じくイギリスの植民地支配を受けており、お茶の生産地として大規模なプランテーション農業が行われていました。
スリランカは、そんなインドを拠点とする茶産業の生産力アップのための土地として選ばれました。
「リプトン」発祥の地
上述した通り、スリランカでは、当初インドから持ち込まれたアッサム種が栽培されていました。
そのアッサム種をスリランカに持ち込んだのは、「トーマス・リプトン」という人物。現代でも世界有数の紅茶メーカー「リプトン」の創業者です。
彼は、39歳で紅茶事業に参入し、セイロン島の茶園を全て買い占めて紅茶ビジネスを開始しました。
商才のあったリプトンは、「茶園からそのままティーポットへ」というキャッチフレーズを産み出し、各国でキャンペーンを開始します。そして、そのキャンペーンが功を奏し、「セイロンティー」と「リプトン」の名は世界に広まっていくことになったのでした。