茶種|半発酵茶(中国茶・烏龍茶)
お茶には「不発酵茶」「半発酵茶」「発酵茶」「後発酵茶」という発酵具合による種類わけがあります。
この記事ではその中でもあまり耳馴染みのない「半発酵茶」についてご説明します。
半発酵茶って?
茶葉を半分ほど発酵させたお茶のことを半発酵茶といい、その代表的なお茶が「烏龍茶」です。 発酵茶である紅茶と不発酵茶である緑茶のちょうど中間のお茶と考えるとわかりやすいかもしれません。。
本場中国では、半発酵茶の中でも発酵具合によってさらにそこから3種類に分けられています。
半発酵茶の味・香り・色
烏龍茶を思い浮かべていただけるとわかりやすいですが、半発酵茶は香ばしい香りで緑茶に比べて香りが濃いです。 味はほんのり苦味がありますが、コクと深みのある味わいです。
後味がすっきりとしているので、お肉や中華料理など脂っこいものや味の濃いものを食べた後に好んで飲まれます。
半発酵茶の成分
茶葉にはさまざまな成分が含まれていますが、発酵という工程を加えることにより香りを作る香気成分や、色を作る色素成分が生まれます。
お茶の色を左右する成分であるカテキンは、発酵するほど水色(お茶を淹れた時の色)が赤くなるので発酵茶である紅茶の水色は赤ですが、その半分しか発酵していない不発酵茶(烏龍茶)は緑色から赤色に変わる途中の茶色っぽい色で止まっています。
半発酵茶の製造工程
半発酵茶は、生の茶葉を日光の下に干し、その後室内でしばらく広げて炒ります。そして炒った茶葉を濡れた布袋に入れ放置し、そのお茶を揉んで乾燥させて完成です。
発酵茶が湿度の高い部屋に置いてしっかり発酵させることに対し、半発酵茶はお茶を炒ることで発酵を止めます。
半発酵茶の種類
日本ではあまり馴染みがありませんが、中国では半発酵茶の中でも発酵度合いによってお茶の名称が変わります。
白茶(パイチャ)
半発酵茶の中でもっとも発酵が進んでいないお茶で「弱発酵茶」ともいいます。この白茶は加工する際に「揉む」という工程がありません。
青茶(セイチャ)
私たちが良く知る烏龍茶はこの青茶にあたります。発酵度合いは種類によって大きく変わりますが、半発酵チャで一番多いのがこの青茶です。
黄茶(ファンチャ)
特別な加熱処理をして作られるお茶です。途中まで発酵させた茶葉を熟成させ流ことによって水色が黄色になるため、黄茶と名称がつきました。
<関連リンク>
茶種|発酵茶(紅茶)
みなさんが普段から飲んでいる紅茶の事を「発酵茶」といいます。
この記事では世界で一番飲まれているお茶、発酵茶(紅茶)について詳しくご紹介します。
発酵茶(紅茶)って?
発酵茶とは、茶葉をしっかり発酵させて作ったお茶のことで、「紅茶」がこの発酵茶にあたります。
お茶の品種や種類は沢山ありますが、元を辿ると「中国種」と「アッサム種」の2種類のみ。発酵茶(紅茶)の多くは、茶葉の発酵が進みやすい「アッサム種」の茶の木から作られています。
発酵茶(紅茶)の味・香り・色の特徴
発酵茶(紅茶)は美しい赤色と、華やかで優しい香りと味わいが特徴です。
ただし、発酵茶(紅茶)は山地の気候や風土によって味や香りが大きく異なります。
特に世界三大紅茶に選ばれた紅茶、インドのダージリン・スリランカのウバ・中国のキーモンは、味も香りも独特で、私たちが普段から口にすることが多いペットボトルの紅茶や、ティーバッグの紅茶とは全く異なる味と香りです。
味と香りが幅広いのも発酵茶(紅茶)の特徴であり、魅力です。
発酵茶の成分の特徴
発酵茶(紅茶)には、茶葉そのものの成分に加え、茶葉を発酵することによって作られる成分が含まれています。
アロマのような香りを出してくれる香気成分、お茶の色を美しい赤に変える成分テアフラビン・テアルビジンなどが代表的です。
発酵茶の製造工程の特徴
発酵茶はその名の通り発酵させて作るお茶です。
紅茶の香り・味・コク・水色を作るために重要な酸化酵素を活性化する揉捻(じゅうねん)という作業を行います。
その後、発酵、乾燥・選別(等級分け)などの工程があり、商品として並びます。
発酵茶(紅茶)について
最後に発酵茶の山地や起源をご紹介します。
紅茶の主な産地
日本では緑茶がメジャーですが、実は紅茶は世界20カ国以上で生産されており、世界のお茶の生産量の70%を占めています。中でも特に有名な紅茶の産地をご紹介します。
インド
紅茶大国として有名なインドは、紅茶の生産量もダントツの世界一、その生産量は年間100万トンにも昇ります。
インドで生まれたダージリンは世界三大紅茶の1つに選ばれており、その香りの良さは「紅茶のシャンパン」と称えれるほど。日本でも多く飲まれている紅茶です。ちなみに、ダージリンと同じくらい有名なアッサムもインド産です。
スリランカ
スリランカの紅茶は「セイロン紅茶」と呼ばれ、世界中で愛されています。
世界三大紅茶「ウバ」の生産地であるスリランカでは、主に山脈周辺で栽培されているのですが、その高度によって品質のランクが分かれています。
生産量は世界2位の32万トンです。
ケニア
日本だと、ケニアといえばコーヒーのイメージが強いですが、実は紅茶生産量は世界3位で、その量はスリランカにせまる30万トン。主にヨーロッパに輸出されています。意外と歴史も長く、第一次大戦後から茶園が開拓されています。
中国
世界三大紅茶「キーモン」の産地でもある中国は、烏龍茶などの中国茶の印象が強いですが、実は紅茶の発祥の国でもあります。紅茶の年間生産量は5万トンとほかの紅茶の名産地に比べると少ないですが、近年紅茶生産に力を注いでおり急激に生産量が増えています。
和紅茶
日本で作られた紅茶のことを和紅茶といいます。
あまり知られていませんが、実は明治時代から栽培されていて、食の国際大会で金賞をもらうほど品質の良い紅茶です。万人に好かれるようなクセのないまろやかな味と香りです。
インドネシア
現在の紅茶生産量は世界4位ですが、第二次世界大戦で茶園が燃えてしまう前はインドに並ぶ紅茶大国でした。特徴はセイロンティーに似ており、マイルドでクセのない味わいが特徴ですが、ややコクが足りないため主にブレンド用に使われます。年間生産量は13万トン。
紅茶の起源
お茶の歴史は中国に始まり、その歴史は紀元前までさかのぼりますが、紅茶の歴史は比較的新しく、1720年以降だといわれています。
紅茶の起源には諸説ありますが、福建省に集められていた半発酵茶の「武漢茶」が西ヨーロッパのお茶の主流になり、そこから発酵度を上げたりと試行錯誤し開発を繰り返すことで生まれたのが、今私たちの身近にある紅茶とされています。
その後、紅茶に向いている品種「アッサム種」がインドで発見され、インドやその周辺のスリランカなどでお茶の栽培が活発になり、紅茶が世界に広がりました。
<関連リンク>
茶種|不発酵茶(緑茶)
「不発酵茶」と聞いてもピンとこない人が多いかと思いますが、そんなあなたも実はよく飲んでいるのが不発酵茶。
この記事ではそんな不発酵茶についてご説明します。
不発酵茶って?
不発酵茶とは、茶葉をほとんど発酵(酸化)させずに作ったお茶のことで、私たちが普段から飲んでいる日本茶(緑茶)はこの不発酵茶です。
ちなみにしっかり発酵させた茶葉は紅茶に、半分ほど発酵させた茶葉は烏龍茶などになります。
同じお茶の木から摘んだお茶の葉でも、発酵具合で味も香りも全然違うお茶に仕上がるのは茶葉の面白いところでもあります。
不発酵茶の味・香り・色の特徴
品種やお茶の種類によっても変わりますが、基本的に不発酵茶は味や香りが繊細で、淹れるととても綺麗な緑色になります。
ただし、日本茶には沢山の品種や種類があるため、一概には言えませが、「日本茶の味・香り。色」をイメージした時に頭に思い浮かぶのが不発酵茶のそれと思っていただいて相違ありません。
不発酵茶の成分の特徴
不発酵茶は発酵のプロセスが無いため成分や栄養素の変化が起こりにくく、茶葉がもともと持っている豊富な栄養素をほとんどそのまま含んでいます。
ビタミンCや、テアニンなどのアミノ酸をはじめ、抗酸化効果が期待できるタンニン、免疫強化やガン予防に効果的とされるβカロチンβカロチンなど多くの栄養成分がぎゅっと詰まっています。
不発酵茶の製造工程の特徴
まず最初に蒸すことで酸化酵素の働きを止め、茶葉の酸化発酵が進まないようにします。このことを「失活」といいます。
その後さまざまな方法で繰り返し揉み、茶葉を柔らかくしながら水分を抜き、乾燥させます。 その後火入れ(焙煎のようなもの)と選別を繰り返し、最後に品質を均一にするためにブレンドを行い、やっと完成です。
不発酵茶の種類
不発酵茶には、煎茶を始めとし、たくさんの種類があります。
煎茶
日本で消費されるお茶の約70%が煎茶です。新茶を摘んだあとにすぐに蒸して揉みます。
深蒸し煎茶
深蒸し 煎茶とは、通常の煎茶より2〜3倍長く蒸して作られたお茶のこと。蒸し時間が長いことで香りは落ちますが甘みが増します。
抹茶
抹茶の原料となるお茶は「てん茶」。てん茶は唯一揉む作業をせずに作られるお茶です。
釜炒り茶
釜炒り製法は中国から伝わった製法で、茶葉を蒸すのではなく、釜で炒って作られたお茶を釜炒り茶と呼びます。炒ることでほかのお茶にはない香ばしい香りがします。
ほうじ茶
通常のほうじ茶は一般的に、緑茶、特に番茶や茎茶を褐色になるまで強火で炒って作られたお茶。香ばしい味と香りが特徴です。
かぶせ茶
かぶせ茶は、煎茶のうち、10日間以上の被覆栽培を行なって造られたお茶のことです。日光を遮ることで旨味成分をたっぷりと蓄えており、「覆い香」と呼ばれる海苔のような香りが特徴的です。
<関連リンク>
茶種|かぶせ茶
お茶は、品種・栽培方法・製造工程などの違いによって、その味や香りもさまざまです。
この記事では、玉露と間違えられやすい「かぶせ茶」をご紹介します。
かぶせ茶って?
かぶせ茶は新芽の育成期間中に覆いをして太陽光を遮る「被覆栽培」で作られたお茶で「冠茶」とも書きます。 同じく被覆栽培で作られる玉露と間違えられることがありますが、玉露ではありません。
玉露とかぶせ茶の大きな違いは被覆期間で、玉露が20日前後被覆することに対して、かぶせ茶の被覆期間は1週間前後。
そのためかぶせ茶は「煎茶と玉露の中間に位置するお茶」と表現されることが多いです。
かぶせ茶の特徴
かぶせ茶は煎茶と玉露の長所を合わせ持つお茶です。
玉露ほど旨味やコクは強くありませんが、苦味が少なく煎茶よりも甘味・旨味があり、まろやかな味わいで、香りも豊かです。茶葉の色も煎茶よりも鮮やかです。
玉露に比べると価格も下がるのでお手軽に高級茶の風味を味わえるのもかぶせ茶のいいところ。
またかぶせ茶はお湯の温度や蒸らし方によって味わいが変わります。低温でじっくり抽出すると玉露のような甘味・コク・旨味が強くなり、熱湯でさっと抽出すると煎茶のような爽やかな味わいになり、抽出温度で味を調節することができるのです。
かぶせ茶の定義
かぶせ茶は摘採前に、わらやむしろ寒冷紗(かんれいしゃ)などを使って茶葉を覆って日光を遮断する被覆栽培で作られたお茶のことです。
かぶせ茶の被覆栽培は玉露に比べると簡易で、被覆期間は1週間前後、遮光率も50%前後ほどです。
かぶせ茶の成分
通常のお茶に含まれているビタミン・タンニン(カテキン)・カフェイン・カリウムなどはもちろんのこと、玉露ほどではありませんが、旨味のもとになるテアニンなどのアミノ酸が豊富に含まれています。
また、日向を遮断することでテアニンがカテキンに変化するのを防ぐことができるため、通常の煎茶と比べてカテキンの含有量が少ないのが特徴です。
かぶせ茶の製造工程
かぶせ茶の製造工程は煎茶などと基本的には同じで、違いは栽培工程にあります。
何度か触れていますが、かぶせ茶は被覆栽培という栽培方法で育てます。
かぶせ茶の産地
かぶせ茶は、福岡県・鹿児島県・奈良県・京都府・静岡県など日本各地のお茶の産地で生産されていますが、特に盛んなのが三重県で、その生産量は日本全体のかぶせ茶の3分の1以上を占めています。
三重県のお茶は伊勢茶と呼ばれており、特に四日市市や亀山市では二番茶までしか摘まないため、高品質なかぶせ茶に仕上がります。
かぶせ茶の飲み方
煎茶を淹れる最適な温度は80度前後ですが、玉露の場合は60度前後。
煎茶と同様、低温で抽出することで旨味だけを楽しむことができます。
<関連リンク>
茶種|ほうじ茶
淹れた時の茶色い水色や香ばしい味から、緑茶とは違うお茶だと思っている人もいますが、ほうじ茶は緑茶の一種です。
最近はお茶として飲むだけでなく「ほうじ茶ラテ」「ほうじ茶チョコ」「ほうじ茶アイス」などお菓子やほかの飲み物に使われることも多く、若者からの人気も高いほうじ茶。
この記事ではそんなほうじ茶を詳しくご紹介します。
ほうじ茶って?
ほうじ茶は私たちにとって身近なお茶で、飲む機会が多いにも関わらず、緑茶とは別の種類と思われていたり、番茶と同じだと思われていたりと曖昧に認識されることが多いお茶です。
ほうじ茶は緑茶の一種であり、厳密には番茶とも違い、煎茶や番茶を焙煎したものがほうじ茶です。 一般的には、一番茶の新芽が使われることはほとんどなく、二・三番茶以降の茶葉や茎の部分が使われるので、比較的廉価で身近なお茶です。
ほうじ茶の歴史は曖昧な部分が多く、公式な記録は残されていません。
昭和初期に起きた大不況のあおりを受けてお茶が売れなくなった時代に、売れ残ったお茶を何とか保存できないかと焙煎したのがほうじ茶の始まりという説もあれば、明治時代にはすでに存在していたという説もあります。
ほうじ茶の特徴
ほうじ茶は、茶葉を焙煎することで生まれる香ばしい香りと味わいが特徴のお茶です。 苦渋味がなく、すっきりとした味わいで飲みやすいのが特徴です。
また、もともとカフェインが少ない番茶を使っているので、胃が弱い方・お年寄りでも安心して飲むことができます。寝る前のリラックスタイムにもオススメです。
ほうじ茶の成分の特徴
ほうじ茶には、美容に良いとされるビタミンや、抗がん作用が注目されるタンニン(カテキン)などさまざまな成分が含まれており、最近ではダイエット飲料として飲まれることも。
中でもアミノ酸が加熱されることによって変化してできる「ピラジン」という成分は、ほうじ茶の香ばしい香りの元となる、ほうじ茶の味わいの左右する香気成分です。
ほうじ茶の製造工程の特徴
ほうじ茶は、通常の煎茶の製造工程に加え、最後に焙煎をして作られます。
この焙煎は家庭でも簡単に行うことができます。 方法は煎茶の茶葉をフライパンで煎るだけ。茶葉を焦がさないよう、様子を見ながら弱火で10分程度で完成です。
美味しいほうじ茶ができるだけではなく、部屋いっぱいにお茶の良い香りが広がりますよ。
ほうじ茶の飲み方
ほうじ茶を入れるときは香ばしい香りを出すために高温で入れるのがポイントです。
沸騰したお湯を使い、焙煎で生まれる火香を楽しんでみてください。
<関連リンク>
日本茶の歴史|大谷嘉兵衛
「茶聖・大谷嘉兵衛」。その功績は、茶業界だけにとどまらず多岐にわたります。時には私財さえ投げ出し、茶業界のため日本のために尽力した大谷嘉兵衛の一生を詳しくご紹介します。
世界を舞台に活躍した明治の大実業家「大谷嘉兵衛」の生涯
誕生~青年期
大谷 嘉兵衛は、1845年伊勢国(現・三重県松阪市)に生まれました。
19歳の嘉兵衛は、近隣出身の小倉籐兵衛が横浜で営む製茶貿易商「伊勢屋」に奉公します。働きぶりが認められ伊勢屋の養子となるも、養父と折合いが合わず離縁。
その後スミス・ベーカー商会の製茶買入方として働き、海外取引責任者となりました。
青年期~熟年期
23歳で幼名の藤吉から嘉兵衛へと改名。スミス・ベーカー商会に勤めながら、横浜に自身の会社「巴屋」を開業、業績を伸ばし茶業界への影響力を付けていきます。
自身の商売だけではなく、輸出急増に伴い茶の品質低下が問題となると、茶の品質向上に尽力。農商務省と協力し全国の茶業を統括する中央茶業本部を設立。政治の世界でも活躍し、茶業界や貿易業界の要職を歴任しました。
熟年期~晩年
49歳で「日本製茶株式会社」を設立。外人商館を通さず直接の輸出取引を始めます。
その後、政府の補助を受け、海外に出張所を開設。同年に横浜商業会議所会頭に就任。1899年に開催されたフィラデルフィア万国商業大会では、日本代表としてアメリカ合衆国大統領と面会し、お茶の関税撤廃を陳情、「太平洋海底ケーブル」の敷設を提案しました。
晩年まで政財界での活躍は続き、1933年90歳の天寿を全うします。
大谷嘉兵衛の功績
「茶聖」と呼ばれた男
先見の明を持つ19歳
嘉兵衛が13歳になる頃、日米修好通商条約が結ばれます。
日本の緑茶は外国人の好みに合い、輸出額は年々増加。生糸に次ぐ輸出商品の花形に成長します。茶の産地伊勢で育った嘉兵衛は、その将来性を肌で感じながら成長したのです。
19歳になった嘉兵衛は、隣村の出身者が横浜で営む製茶貿易商「伊勢屋」に奉公します。10代にして「茶の将来性」を確信し、茶業に携わることを決めた嘉兵衛にはの「先見の明」がありました。
大勝負に出た23歳
急激な需要増で品薄となった茶の買い付けを命ぜられ、嘉兵衛は大阪へ向かいます。見本を見るだけで大胆に買入れを続け約4トンもの茶を購入、使った金額は26万両(104億円/1両を4万円で計算)といわれています。
当時は全て現金による取引のため、拠点とした旅館の玄関に大きな金庫を据えての商売でした。珍しい光景を見ようと、山のような見物人が押し寄せたといいます。
この功績により多額の報酬を得た嘉兵衛は、スミス・ベーカー商会で働きながら、横浜に製茶売り込み業の「巴屋」を開業。嘉兵衛の商売人としての豪胆さがよく分かるエピソードです。
生涯止まらない活躍
嘉兵衛は、故郷伊勢の茶業・教育・架橋に多大な貢献をします。嘉兵衛の力によって伊勢茶の多くが海外に輸出され、地元経済を潤しました。
さらに、嘉兵衛の活躍は晩年になってもとどまることを知りません。
日本貿易協会の会頭、複数の銀行の頭取などを務め台湾鉄道・南満州鉄道・韓国銀行・常磐生命・川俣電気会社などの設立に関与。銀製黄綬褒章をはじめ、勲五等瑞宝章、勲三等瑞宝章、紺綬章、ベルギーよりレオポルド1世勲章を授かっています。
活躍の多様さや受章の多さからも、嘉兵衛の活躍ぶりを知ることが出来ます。
国際的な貢献
1899年にフィラデルフィアで開かれた万国商業大会に日本代表として参加した嘉兵衛は、前年から実施された日本茶に対する高い課税撤廃をアメリカ大統領に直訴。その結果、関税が廃止され茶の輸出は再び増加しました。
さらに、日本の茶業界が世界で戦うには、迅速に海外の状況を知る情報伝達手段が必要だとして、太平洋海底へのケーブル敷設を提案しインフラ整備に貢献したのです。
新しい取組みへの理解
嘉兵衛が茶業中央会議所会頭を務めた当時、一人の茶農家が周囲の理解を得られないまま「茶の品種改良」に取組み苦しんでいました。「茶の品種改良」の必要性を理解した嘉兵衛は、私財を投じて土地を購入し試験地として提供、品種改良事業を激励しました。
その茶農家が、現在も日本の茶生産量の70%以上を占める品種「やぶきた」の生みの親「杉山彦三郎」です。誰も理解を示さなかった「茶の品種改良」に、私財を投じて貢献した嘉兵衛は「やぶきた」のもう一人の生みの親ともいえます。
世界を舞台に活躍した明治の大実業家「茶聖・大谷嘉兵衛」を知ると、一杯のお茶から胸躍るロマンを感じられるのではないでしょうか。
日本茶の歴史|高林謙三
医師としての成功をつかんだにもかかわらず、生涯を製茶機械の発明に捧げた高林謙三。その波瀾万丈の生涯をご紹介します。
「製茶機械の父」高林謙三とは
生い立ちとその生涯
医学の世界からお茶の世界へ
16歳で医学を志し漢方医学・西洋外科医術を学び医師として成功していた謙三でしたが、明治に入り当時の貿易不均衡を案じ「茶の振興が急務」と、茶園経営を始めます。
当時全て手作業だった栽培・製茶作業の効率の悪さを改善するため機械化を思い立ち、私財を投じて製茶機械開発を始めます。
その後、「焙茶機械」・「生茶葉蒸器械」・「製茶摩擦器械」を発明、特許を取得しました。
逆境から亡くなるまで
謙三が最終的に目指したのは、全工程のオートメーション化でした。
54歳の謙三は医師を廃業し開発に専念します。やっとの事で完成にこぎ着けた「自立軒製茶機械」でしたが、不備が見つかり返品が相次ぎます。その結果、経済的困難に見舞われますが、屈することなくその後も開発を続け68歳の時「茶葉粗揉機」を完成させ、特許を取得しました。
その後、この機械の監査役として静岡で生活していましたが、1899年に脳出血で他界しました。
発明家・高林謙三の栄光と挫折
栄光・民間初の特許を取得
謙三が「生茶葉蒸器械」・「焙茶機械」・「製茶摩擦器械」を相次いで開発した同時期に日本の特許制度がスタートします。すぐに特許を申請し、それぞれの機械が「特許2・3・4号」を取得しました。
日本の特許第1号は宮内省技師の発明した軍艦塗料なので、謙三は民間発明家として日本初の特許取得者となりました。
その後も改良扇風機で特許第60号、茶葉揉捻機で特許第150号、茶葉粗揉機で特許第3301号を取得しています。謙三は6つの特許を取得した、優秀な発明家だったのです。
挫折・自立軒製茶機械の失敗
謙三が医師を廃業してまで開発に専念し1887年に完成させたのが、「自立軒製茶機械」です。当初は国の後押しで全国の茶業者に対し説明会が開かれ、注文も殺到しますが、その後苦情が相次ぎ、この機械で製造した商品までが不良品のため返品されてくる始末でした。
さらに、自宅を火事で失うという不幸まで続きます。農商務省の計らいで、研究用製茶工場を設けますが、家庭の経済は切迫し、肺の病気を患いながらの開発だったようです。それでも、謙三は機械開発に向けての努力を続けました。
栄光・茶葉揉乾機の発明
謙三は「製茶機械の父」と言われています。「茶葉粗揉機」は、製茶業の作業形態を大きく変えました。謙三の機械は、その原理や構造が現在も全国の製茶機械に使われている素晴らしい発明です。
さらに、茶が当時の主要な輸出品だったことを考えると「日本経済に貢献した」と言えるほどの大きな発明だったのです。
日本の製茶業界|機械化前と機械化後
機械化前の製茶業界
現在、茶園で摘採した生葉は、蒸器→粗揉機→揉捻機→中揉機→精揉機→乾燥機を経て製品化されます。
機械化以前はこの工程を全て手作業で行っていたので、職人1人当たり一日に3~5kgの製茶しかできませんでした。そのため、茶の輸出量増加に生産が追いつかない状況が続き、粗悪品が急増するという事態が発生します。製茶の機械化は、国を挙げての急務だったのです。
機械化後の製茶業界
謙三が目指した「機械化」は、手揉みと変わらない品質を実現し、なおかつ低コストで大量生産することでした。
残念ながら、謙三は全行程のオートメーション化を実現することはできませんでしたが、下揉み作業の省力化に大きく貢献しました。明治の初めには1万トン弱だった生産量が、明治末には3万トンを超えるようになります。
謙三は人の手作業を忠実にまねる機械を目指したので、茶の品質が低下することはありませんでした。その証拠に、日本一の茶師・大石音蔵と謙三の「茶葉揉乾機」を対決させた結果、能率・品質においても機械が圧勝。大石音蔵自ら、この機械を買い求めたというエピソードが残っています。
高林謙三の生涯を知ると「茶葉」の美しさが、よりいっそう心にしみますね。
日本茶の歴史|永谷宗円
お茶の歴史は永谷宗円(ながたにそうえん)抜きでは語れません。この記事では「青製煎茶製法」を生み出し、煎茶の普及に大きく貢献した永谷宗円について解説します。
永谷宗円とは
永谷宗円の基本情報
永谷宗円は、延宝9年(1681)に山城国(現・京都府)宇治田原郷湯屋谷村に生まれました。
永谷家の祖先は侍でしたが、文禄元年(1592)に湯屋谷の土地を開拓して茶園を開き、製茶業を営むようになりました。家業である製茶業に従事した永谷宗円は、農地改良などの陣頭指揮を執る「村のリーダー」でもあったようです。
安永7年(1778)に97歳で没した後も日本緑茶の祖として尊ばれ、生家に隣接する大神宮神社に「茶宗明神」として祀られています。
誰もが知っているあの企業との繋がり
永谷宗円と聞いて「聞いたことがある名前だな」と思った人もいるのでは?
永谷宗円は「お茶づけ海苔」で有名な、あの「永谷園」と深い繋がりがあります。
「永谷園」は、永谷家10代目の永谷嘉男により創業されました。創業当初の永谷園は、製茶業や茶量(煎茶道の道具)の切売りをしていましたが、1952年に発売した「お茶づけ海苔」で経営を不動のものとしました。
現在の永谷園の商品は、ふりかけ・即席味噌汁など、お茶とは無縁のものがほとんどですが「お茶づけ海苔」の原材料には、しっかりと抹茶が使われています。
永谷宗円の「お茶」への功績
永谷宗円のお茶への功績は2つあります。
現在の煎茶製法の基となる「青製煎茶製法」を生み出した
その当時、富裕層は挽き茶(現在の抹茶)、庶民は煎じ茶(現在の煎茶)を飲んでいましたが、煎じ茶は色が赤黒く味もあまり良くないものでした。「青製煎茶製法」により色の良い、おいしい煎じ茶が誕生し広く普及したため、庶民もおいしいお茶を楽しめるようになりました。
宇治茶を江戸で販売することに成功した。
日本最大の消費地となった江戸に目を付け、高い年貢や他のお茶産地に押され斜陽になり始めた宇治田原のお茶(宇治茶)の販路拡大に成功したのです。
永谷宗円と関係の深いもう一つの有名企業「山本山」
当初江戸では、新製法のお茶を評価する茶商はいませんでした。しかし、元文3年(1738)に和紙やお茶・茶器類を扱っていた山本山を訪れた際、4代目の山本嘉兵衛が永谷宗円のお茶を気に入り、即買い取ったと言われています。
その後、この煎茶に「天下一」と名付けて売り出すと、大人気となり江戸から全国へ広がりました。永谷宗円のお茶によって莫大な利益を得た山本山は、その後毎年謝礼として、小判25両を明治8年(1875)まで永谷家に渡したというエピソードも残っています。
青製煎茶製法とは
「青製煎茶製法」以前のお茶は、茶葉を加熱した後、乾燥し仕上げたもので色が黒っぽく、味もあまりおいしくなかったようです。お茶の色から「黒製」と呼ばれていました。
宗円の考え出した「青製煎茶製法」は、蒸した茶葉を乾燥させる前に「揉む」作業が加えられ、色が美しく、味わい深いものになりました。こちらは、お茶の色が青い(緑色)ことから「青製」と呼ばれました。
「青製煎茶製法」を生み出した永谷宗円がいなければ、現在の煎茶の美しい色や味わいを楽しむことはできなかったのです。
茶器|信楽焼
このサイトでは日本にあるさまざまな陶磁器についてお伝えしていますが、今回はきっと皆さんも一度は目にしたことがある「たぬきの置物」で有名な信楽焼(しがらきやき)をご紹介しましょう。
信楽焼って?
信楽焼は滋賀県信楽町とその周辺で作られている焼き物で、備前焼・常滑焼・瀬戸焼・丹波焼・越前焼とともに日本六古窯に数えられています。
特徴
信楽焼は絵付けなどを施さず、焼き上げの工程で生まれる色をそのまま生かした素朴な作品が多いのが特徴です。
温度や焚き方、土の状態により発色や形が異なり、この世に2つとして同じものがないことから、古くから茶人に愛用されていました。
また、信楽焼は焼成する際に灰に埋まった焼き物の裾部分が黒褐色になります。このことを「焦げ」や「灰かぶり」と呼び、茶陶器においては趣があると珍重されています。
信楽焼のたぬき
信楽焼といえば「たぬきの置物」が有名。
信楽焼の生産地である信楽町には有名な観光地「たぬき村」があり、大小さまざまな1万匹もの信楽たぬきが観光客を出迎えています。たぬきは古くから縁起物とされていたため、江戸時代にはすでに茶道具としてたぬきの焼き物がありましたが、置物が本格的に作られたのは明治時代。
陶芸家の藤原銕造(ふじわらてつぞう)が、ある夜に偶然目にした腹づつみを打つたぬきを再現したいと思って作ったのがきっかけだといわれています。大きな陶器を得意とする信楽焼だからこそ作り上げることができました。
信楽たぬきが一躍有名になったのは昭和26年。
昭和天皇の信楽行幸の際に沿道に並べていた信楽たぬきに天皇が感激し、歌まで詠まれます。この様子が新聞やニュースで大きく報道されたことで瞬く間に日本中で人気を博し、今では「信楽焼=たぬき」といわれるほどになりました。
信楽焼の歴史
遡ること奈良時代。聖武天皇が紫香楽宮という都を造営した際に、瓦を焼いたのが信楽焼の始まりだと伝えられています。
「しがらき」という名称は、この時代に山深く木々が茂っていた場所だったため、「しげる木」から「しがらき」という名がついたという説と、当時は朝鮮から多くの陶工を呼んでおり、山に囲まれた土地を意味する韓国語「シダラ」という言葉からつけられた説があります。
安土桃山時代には茶道具の生産に力を入れ、信楽焼から多くの名品が生まれました。この時生まれた信楽焼のわびさびは現代にもしっかりと受け継がれています。
江戸時代に入ると茶道具以外にも土鍋などの生活用品が作られるようになり、明治時代には信楽焼の火鉢が大流行し、全国生産高の80%以上を占めるようになります。たぬきの置物が生まれ、日本中に広まったのも同じく明治時代。信楽焼は明治時代に大きく発展しました。
その後、昭和に入り電気やガスが広まったことで火鉢の生産は終了したものの、現在にかけてタイルや鉢、たぬきの置物に食器まで幅広く製品を生産しています。
日本六古窯、越前焼
日本には多くの焼き物があり、伝統的工芸品に指定されているものだけで47種類もあります。
そんな中、今回ご紹介するのは日本六古窯のひとつである「越前焼」です。
越前焼って?
越前焼は福井県の嶺北地方西部にある越前町とその周辺で作られている焼き物で、備前焼・常滑焼・瀬戸焼・丹波焼・信楽焼とともに日本六古窯に数えられています。
その歴史は古く、現在までに200以上の窯跡が発見されています。
特徴
越前焼の特徴をご紹介しましょう。
素朴で頑丈な日用品
越前焼の大きな特徴といえばその丈夫さです。
越前焼に使われる土は鉄分を多く含んでいるため、耐熱性に優れており、高温で焼くことができるので土が焼きしめられます。それにより丈夫で水漏れもしにくい器になり、壺やすり鉢・かめ・貯蔵鉢など日用品として使われてきました。
お茶が美味しくなる
越前焼に使われる土には鉄分が多く含まれており、その鉄分がお茶の苦味成分と反応することで、お茶の苦味がほどよく取れてたまろやかな味わいになります。
また、越前焼きは釉薬を使っていないので器の表面に小さな穴が空いているのですが、その穴がお茶の余分な不純物を吸着してくれ、雑味のない美味しいお茶に仕上がります。
遅咲きの名器
今でこそ高く評価されている越前焼ですが、少し前までは注目さえされない焼き物でした。
江戸時代頃から、越前焼は生活に欠かせない庶民の焼き物として日常に溢れかえっており、芸術品や工芸品として認められることも、歴史的価値を見出されることもありませんでした。
転機が訪れたのは1942年。越前焼の古窯跡調査が行われたことをきっかけに日本六古窯に認定され、さらにこれまで幾つかあった名称を「越前焼」に統一したことで、やっと工芸品として注目されるようになったのです。
越前焼の歴史
日の目をみるまでに時間がかかった越前焼ですがその歴史は今から850年前の平安時代まで遡ります。
当時の越前焼は壺・すり鉢・かめなどの日用用品や台所用品を中心に作っていました。
平安時代末期には越前焼の特徴である、釉薬を使わずに高温で焼き上げる「焼き締め陶器」を作り始めます。
室町時代後半になると船を使って北海道から鳥取までの範囲で輸送を始め、これにより越前焼は広く普及し、人々の生活に根付いていきます。
しかし、江戸時代終わりから明治時代に状況は一変。
世間では茶器などの高級な焼き物が流行り、さらに日本全体が近代化され洋風文化も入ってきたことで、素朴な見た目の日用品を作る越前焼の需要は減る一方でした。
それから長い辛抱の期間を乗り越え、1942年に筑前焼の古窯跡調査が行われたことで越前焼の歴史的価値が見出されます。そこからは窯元が増加し、越前には越前焼目当てで多くの観光客も訪れるようになり、越前焼きは見事に復興し今に至ります。
茶器|高取焼
皆さんは、「遠州七窯」という言葉を聞いたことがありますか?
この記事では、遠州七釜のひとつであり、お茶の世界と深く関わる「高取焼」についてご紹介します。
高取焼って?
高取焼は福岡県朝倉群東峰村と福岡市早良区西新町周辺で作られている焼き物で、昔から茶陶作りに尽力しており、茶道の世界においてはなくてはならない存在です。
特徴
綺麗さびという流儀
「綺麗さび」とは千利休の「わび茶」から派生して形成された茶の湯(茶道)の美意識(概念・流儀)で、これは高取焼から生まれ確立されました。
茶道には美しさを表すさまざまな表現がありますが、綺麗さびは「洗練され、垢抜けた美しさ」を意味します。
高取焼は陶器でありながら磁器のように薄くて軽いことが特徴で、きめ細かく繊細な生地、絶妙な調合で作られた釉薬が出す美しい色合いはまさに洗練され、垢抜けた美しい作品です。
遠州七窯の一つ
遠州七窯(えんしゅうなながま)とは、江戸時代の茶人、小堀遠州の好みの茶器を焼いた七つの窯のことで、高取焼はそのうちのひとつに数えられます。
ちなみに高取焼以外は、志戸呂焼(東江)・膳所焼(近江)・朝日焼(山城宇治)・赤膚焼(遠江)・古曽部焼(摂津)・上野焼(豊前)があります。
独自の釉薬
高取焼の魅力といえば、高取釉をはじめとした、こだわりの釉薬から作られる美しい色合いです。
高取焼の釉薬には秘法があるのですが、代々後継のみに渡される釉薬の秘伝書は伝承者のみにしか理解ができない記述になっており、長い歴史の中で今もなおその秘密は守られ続けています。
高取焼の歴史
高取焼は400年の歴史を持ち、生まれたのは安土桃山時代。
この頃は、戦で手柄を立てた武将に恩賞として領地ではなく茶の湯の名器が与えられていた時代。持っている茶碗の名器ひとつでその家の家柄や権力が判断されるほどでした。
そんな中、黒田藩の初代藩主であった黒田長政の名により、朝鮮人陶工の八山らが開窯したのが、現在の高取焼です。
当時の高取焼は藩主のみに献上する御用窯でした。
江戸時代になっても陶器ブームは続き、日用品というよりも名器の生産に力を注ぎます。高取焼も名器を作ることに全力を注ぎ、多くの器を作りながらも、名器以外は全て割り捨てるという徹底ぶりでした。
そしてこの時、試行錯誤の上で完成したのが、今も伝承されている高取焼の釉薬技術と製法です。
あれから400年、現在もなお高取焼は唯一無二の名器を生み出し続けています。
もともとは献上品として茶陶の名器を作っていたので、一部の権力者や茶人しか手にすることができず、一般人にはほとんど出回らないような高級な焼き物でしたが、時代の流れとともに少しずつ一般に流通するようになり、現在では日用食器としても使われています。
伝統的な茶陶から普段使いの日用品まで幅広く作品が作られ、多くの人に愛される食器としてこれからも進化していくことでしょう。