夏に飲みたい!水出し・氷出し茶の作り方
暑い夏の日、喉が渇いているときに飲む冷たいお茶は本当に美味しいですよね。
コクのあるすっきりした味わいは喉を潤すだけではなく、気分もリフレッシュできます。
みなさんは。水出しのお茶や氷出しのお茶の事、どれくらいご存知ですか?
お茶の水出し・氷出しって?
お茶の水出し・氷出しとは、文字どおりお茶をお湯ではなく、水や氷で入れること。
お茶は使う水の温度によって抽出される成分も変化するので、同じ茶葉を使っても驚くほど味が変わります。
お湯で淹れたお茶と何が違うの?
緑茶は抽出温度が低ければ低いほど、苦味の元になる「カテキン」が抽出されにくくなりますが、甘味・旨味の元になる「アミノ酸」は変わらず抽出されるので、水出し・氷出しのお茶は苦味が少なく旨味・甘味の強いまろやかな味わいになります。
特に氷だしは水出しよりも温度が下がるため、より旨味たっぷりで深いコクのある味に変化します。
また、水出し・氷出しは色の変化も少ないので、時間が経っても水色は美しい緑色のまま。お湯で入れるお茶に比べてカフェインも激減するので寝る前の1杯にもおすすめです。
水出しのやり方
水出しのやり方はいくつかありますが、中でもオーソドックスなやり方をご紹介します。
冷水を用意する
水は水道水をそのまま使うのではなく、一度沸騰させて冷やした水・ミネラルウォーター・浄水器の水などを使います。
お茶パックを準備する
お茶1リットルあたり、10g〜15gの茶葉を用意しお茶パックに入れます(大さじ1杯がだいたい5g)。
お茶パックがない場合は、茶葉を直接冷水ポットに入れても問題ありません。その場合、お茶を注ぐ時に茶こしを使うことをおすすめします。
冷水ポットでお茶を作る
お茶パックを冷水ポットに入れ、冷水を注ぎます。
冷蔵庫に入れて3時間〜6時間待てば完成です!
氷出しのやり方
水出しのお茶は作ったことがあっても、氷出しはしたことがない人が多いと思います。
水出しよりさらに甘味・旨味が抽出されてとっても美味しいのでぜひお試しください!
今回は1リットル分と仮定してご紹介します。
氷を用意する
1リットル分の氷を用意します。
茶葉を冷水ポットに入れる
15g〜20g(大さじ3杯から4杯ほど)の茶葉を冷水ポットの底におきます。この時、茶葉はなるべく広げるようにおくと茶葉の成分が抽出されやすくなります。
氷を入れて溶けるのを待つ
その上から氷を入れて、氷が溶けるまで待ちます。じっくり時間をかけて旨味成分がたっぷり抽出されていきます。
飲む前に軽く振る
氷が溶けたら出来上がりですが、コップに注ぐ前にポットを優しく振ってください。
底に沈んでしまったお茶の成分やエキスが均等に混ざり、味のバランスが良くなるとともに、水色も綺麗になります。
冷水ポット以外でも、急須などでももちろん作れます。
煎茶・深蒸し煎茶の淹れ方
普段飲んでいる煎茶も、少しの手間とこだわりでぐんと美味しくなることをご存知ですか?
この記事では、年間数百種類のお茶を飲んできたFETCが考える、煎茶・深蒸し煎茶の美味しい淹れ方をご紹介します。
煎茶・深蒸し煎茶を淹れる時のポイント
紅茶やウーロン茶と比べて、繊細な香りと旨味や甘味を楽しめるのが煎茶の魅力です。
清々しく爽やかな香りと、苦味・渋味・旨味のバランスを楽しむために気を付けていただきたいのは2点。
お湯の温度と茶葉・お湯の量です。
煎茶を淹れるお湯の温度は?
お茶は、お湯の温度が高ければ高いほど、渋味と苦味が強く抽出されます。
これは、渋味成分であるカテキンと苦味成分であるカフェインの溶出温度が高いためで、その逆に旨味成分であるテアニンなどのアミノ酸は低温でも抽出がされやすい成分です。
そのため、高い温度では苦渋味がしっかりと出たお茶に、低い温度だと苦渋味が抑えられ、旨味や甘味を感じやすいお茶になるのです。
おすすめの温度は玉露や上級茶で50〜70度、通常の煎茶で60度〜80度前後ですが、茶葉や好みによって異なりますので、詳しくはこちらの記事を参考にしてみてください。
参考:お茶の味わいと温度の関係
また、水には軟水と硬水がありますが、煎茶など日本のお茶に合う水は軟水です。
日本の水道水は軟水ですので、そのまま使って問題ありませんが、水道水の場合はカルキを抜くとために、一度沸かしてから冷ますと良いでしょう。
茶葉は1gにつきお湯30ml!
美味しいお茶を淹れるためには、茶葉とお湯の量は多すぎても少なすぎてもいけません。
煎茶の場合、ベストな分量は茶葉1gに対してお湯30mlです。
お茶を淹れる際の失敗の多くは、茶葉に対してお湯を入れすぎること。はかりを使って正確に計量し、美味しい一杯のために分量をこだわってみてください。
煎茶・深蒸し煎茶を淹れる前に
美味しい煎茶を淹れるのに必要な道具は以下の通りです。
使う道具
- 急須
- 湯のみ(茶碗)
- 茶さじ
- 鉄瓶
- 湯冷まし
急須には、陶器製、ガラス製、プラスチック製など様々な素材の物があり、また網の形(茶こし)にも違いがあり、淹れるお茶の味にも影響します。
鉄瓶や湯冷ましは、なかなかご家庭にはないと思いますが、使うといつものお茶がより美味しく楽しめます。
煎茶・深蒸し煎茶の淹れ方
- 茶葉:4g
- お湯:120ml(70度)
分量は一杯分です。茶葉1gに対して30mlを守ってもらえれば、どれだけ淹れていただいても構いません。
今回のレシピは、お茶の二煎目・三煎目を楽しむというよりも、一杯の美味しさを追求したレシピです。二煎・三煎と楽しむ場合はこちらのレシピを参考にしてみてください。
①お湯を沸かす
まずは湯を沸かします。
水道水を使う場合は、一度沸騰させることでカルキが抜け、より美味しいお茶が楽しめます。
②70度まで湯冷しをする
温度調節機能のついたケトルが無い場合は、沸騰したお湯を湯冷ましに注いで温度を下げます。
湯冷しがない場合は、沸かしたお湯を人数分の湯のみに注ぎます。
③茶葉を4g計る
はかりを使い、正確に茶葉を計ります。
④お湯120mlを急須に注いで蒸らす
冷ましたお湯をゆっくりと急須に注ぎ、茶葉を蒸らします。
煎茶なら120秒、深蒸し煎茶なら80秒程待ちます。
この間、蓋は開けたままにしておいてください。湯温がゆっくりと下がり、よりお茶の旨味が楽しめるようになります。
⑤手返しをしながら湯呑みに注ぐ
あとは湯呑みにお茶を注ぐのみですが、この際、急須を「手返し」しながら淹れてみてください。
「手返し」とは、以下の写真のように急須を手首で揺すりながら淹れる技法のこと。
これをすることによって急須の中で茶葉が擦れ合い、成分がより多く抽出されるため、濃厚な味わいを楽しむことができます。
急須はこのように、手のひらで取手を握り、蓋がずれないように親指で支えるように持ってください。
⑥最後の一滴まで注ぎ切る
急須に残った最後の一滴は、お茶の旨味をたっぷりを吸った黄金の一滴です。
急須を縦に2〜3回、優しく振って最後の一滴まで注ぎ切るようにしましょう。
⑦お茶の香りと旨味を楽しむ
煎茶の美味しさはなんと言ってもその香りと旨味です。
湯呑みから立ち上る香り、舌に広がる旨味とそれを引き締める渋味と苦味のバランス、最後にスッと鼻に抜けていく香りまで、心ゆくまで楽しんでください。
お茶は出がらしまで食べられる?
実はお茶の出がらしは意外にも美味しく食べられるのです。
茶葉に溶け残った豊富な栄養分をまとめて摂ることができる「お茶のおひたし」も、是非試してみてください。
侘び茶を完成させた文化人・武野紹鴎について
村田珠光から始まる「侘び茶」完成への流れを、千利休へ引き継いだ人物「武野紹鴎」についてご紹介します。
武野紹鴎とは
武野紹鴎(たけのじょうおう・1502 -1555)は大和国(現・奈良県)で生まれました。20代になると京都で暮らし始めます。27歳で、当時最高の文化人であった三条西実隆に古典や和歌についての教えを受けるようになりました。
また、村田珠光の流れを継ぐ茶人から茶の湯を学びます。31歳の時に、応仁の乱で荒れた京都から堺へ移り住み、出家し「紹鷗」の法名を受け、茶の湯に専念し「佗び茶」の道を追求したとされています。
村田珠光が目指した「侘び茶」
紹鴎は村田珠光の孫弟子にあたります。師匠・珠光が見いだした「侘び茶」を、紹鴎がさらに洗練させ、紹鴎の弟子である千利休が完成させたのです。
珠光が残した言葉を知ることで紹鴎が目指した「侘び茶」の源を知ることができます。
「物」に関する言葉
珠光は「和漢のさかいをまぎらかすこと肝要」という言葉を残しています。唐物だけを良しとした風潮に対し、日本の焼物のもつ素朴な美しさにも関心を寄せることが肝心だと主張し、新たな美意識を茶の湯の世界にもたらしました。
そんな珠光が残した茶道具は「珠光名物」と呼ばれ、そのうちの1つの茶碗を千利休が使用していたとの逸話も残されています。
また「月も雲間のなきは嫌にて候(光輝く満月よりも、雲の間に見え隠れする月の方が趣があり良い)」という言葉からは「不足の美」を良しとする、「新しい茶の湯」の姿が見えます。この美意識は茶室を作る際にも影響し、珠光は茶室を四畳半という狭い空間に区切り、装飾を排することで現れる美を目指したのです。
「心・精神」に関する言葉
禅の影響を受けた珠光は「物を極限まで排することで現れる美」を追究しました。そして、物の不足を「心の豊かさ」で補うことを目指したのです。
茶の湯の「心・精神」を重視した珠光は、茶の湯の道にとって最も大きな妨げとなるのは「慢心と自分への執着」であるとし、どんなに上達しても人には素直に教えを請い、初心者にはその修行を助けることを説いています。
さらに、珠光が弟子に宛てた一節に「心の師とはなれ、心を師とせざれ。」があります。「移ろいやすい心に振り回されず、自分が心をコントロールする立場になりなさい」という意味です。珠光は茶の湯を、心をコントロールし自分自身と対峙する「精神修行の場」とすることを目指したのです。
武野紹鴎の「侘び茶」
紹鴎は、村田珠光からの流れを受け継ぎ、「侘び茶」にさらなる精神性を取り入れた人物です。そんな紹鴎に影響を与えた、2人の人物をご紹介します。
文化人・三条西実隆(さんじょうにしさねたか)
当時最高の文化人であった三条西実隆に連歌・和歌を学んだことは、紹鴎の「侘び茶」に大きな影響を与えました。
紹鴎は「連歌は枯れかじけて寒かれと云ふ。茶の湯の果てもその如く成りたき」という言葉を残しています。連歌における「冷え枯れる」という概念を、茶の湯に向き合う心としたいという意味です。「冷え枯れる」とは、「樹木が枯れる初冬の冷え冷えとした空気。または、そこで感じる清々しく凛とした心持ち。」を表す言葉です。紹鴎は、そのような心で茶の湯に向き合うことを目指したのです。
紹鴎が目指した境地を表すもう1つの歌が、和歌にあります。藤原定家の「みわたせば 花ももみぢも なかりけり 浦のとまやの 秋の夕暮」です。「秋が深まり、花や紅葉のような楽しく美しい情景は、この海辺の苫屋にはもうないのだなぁ」と歌っているのですが、この情景に美を感じる概念が「足らざることに満足し、慎み深く行動する」侘び茶の概念へとつながっていくのです。
禅僧・大林宗套(だいりんそうとう)
紹鴎は南宗寺の禅僧・大林宗套より禅を学ぶことにより、茶の湯に向き合う精神と禅の精神をこれまで以上に融合していきます。そしてその流れは、千利休により「茶禅一味」という概念を完成させることにつながるのです。「茶禅一味」とは「茶と禅は、行うことの見た目は違うが、その本質においては別物ではなく、どちらも人間形成の道である。」という意味です。
村田珠光により、茶の湯は戦国時代の無常感のなかで禅と結びつきます。さらに武野紹鴎により、和歌や連歌のエッセンスと共に洗練され、禅の「本来無一物(ほんらいむいちもつ・全ては空であるから何物にもとらわれてはいけない)」の精神に向かい、千利休による「侘び茶」の完成に至るのです。
日本茶の歴史|中條景昭
幕末の大変革期、静岡県の牧之原台地は地元農民でさえ見放す荒れ果てた土地でした。その土地を200名余りの武士からなる「農業素人集団」を率いて、日本有数のお茶の産地に生まれ変わらせた人物「中條景昭」をご紹介します。
中條景昭とは
侍時代
中條景昭は1827年、江戸六番町に旗本の庶子として生まれました。13代将軍・家定に仕え、家中の武士たちに武術を指南する剣客でした。1867年に15代将軍・慶喜が、大政を奉還して駿府(現・静岡県)に移住する際には、精鋭隊の一員として警護に当たります。その後、精鋭隊は使命を終えて解散。江戸から明治となり、幕府を失った景昭ら武士は、第二の人生の選択を迫られることとなります。
開墾開始
景昭は、「金谷原(現・牧之原台地)開墾方」を率いて牧之原台地の開墾に挑むことを決断します。この頃の牧之原台地は、地元農民でさえ見放す荒野であることを承知の上で、「我輩にこの地を与えてくださるならば、死を誓って開墾を事とし、力食一生を終ろう」 と勝海舟に誓ったといいます。
その後、42歳の中條は「金谷原開墾方」を率いて開墾を開始しますが、初めてわずかな茶芽を収穫できたのは、開墾開始から4年後のことでした。
晩年
時代が進み官有地であった土地が個人で売買できるようになると、開墾方のメンバーも農民として残るものから土地を離れるものまで、次第にバラバラになっていきました。
そんな中、神奈川県令(知事)への要請がありましたが、開墾を続けるために断ります。その後は、生産した茶を集めて共同製茶し、輸出品とするため「牧之原製茶会社」設立に取組みますが、事業資金の請願が却下され実現することはありませんでした。
そんな苦難にも負けず、一途に牧之原台地の開墾に生涯を捧げ1896年69歳で亡くなりました。
中條景昭の功績
抜群のリーダーシップ
時代のリーダー「幕末の三舟」と呼ばれた勝海舟、山岡鉄舟らと親交のあった景昭は、彼自身も優れたリーダーでありました。
当時42歳の景昭が率いた「金谷原開墾方」は約200人、その家族を加えるとかなりの大所帯でした。しかも開墾方のメンバーは、身分の高い武士から能楽師まで、さまざまな経歴を持つ「農業の素人集団」だったのです。
そんなバラエティー豊かな「農業の素人集団」をまとめ上げ、牧之原台地開墾という偉業を成し遂げた景昭のリーダーシップは称賛に値するものでした。
武士の矜持と共に第二の人生を牧之原台地に捧げる
将軍の身辺警護をする「エリート官僚」から、開墾・茶栽培という未知の分野への転身にどれだけの葛藤があったかは、現代の私たちにも容易に想像できます。
優れたリーダーでもあった景昭には神奈川県令(知事)への要請もありました。
しかし、「いったん山へ上ったからは、どんなことがあっても山は下りぬ。お茶の木のこやしになるのだ」と断ったことからは、景昭の一途さがうかがわれます。
また、生涯髷を切らず武士の矜持と共に「牧之原台地開墾」に打ち込んだ景昭の葬儀では、その偉業に敬意を表し勝海舟が葬儀委員長を務めました。さらに、景昭の死を悲しむ開墾方のメンバーが21日間も墓参を続けたという逸話からは、景昭の人柄が偲ばれます。
現在の牧之原台地
新茶の季節には一面が鮮やかな緑色に染まる牧之原台地ですが、開墾当初は東京ドーム約42個分・200ヘクタールほどの、水の供給もままならない荒野でした。
その土地を「金谷原開墾方」は、東京ドーム約1,063個分・5,000ヘクタールに開墾、大茶園にしたのです。
景昭亡き後も土地や茶葉の改良が繰り返され、「深蒸し茶」製法の原型が考案されるなど人々の努力が続き、現在では深い緑色の水色とコクのある味わいの「牧之原茶」が、静岡を代表するブランドの1つとなりました。
江戸から明治への激動の時代に、第二の人生を賭けて未知の分野へ挑んだ中條景昭の生き様からは、現代の我々も学ぶべきところが多いのではないでしょうか。
日本茶の歴史|山本嘉兵衛
「山本山」の山本嘉兵衛 とその功績
山本嘉兵衛は、日本の茶の歴史を語る上で欠かせない人物です。といっても「山本嘉兵衛」は一人の人物ではありません。山本家の当主が代々「嘉兵衛」を名乗ってきたからです。今回の記事では、山本家の歴代当主の中から、初代・山本嘉兵衛と、4・5・6代目山本嘉兵衛の功績の数々をご紹介します。
初代・山本嘉兵衛~山本山の始まり
初代・山本嘉兵衛は、山城国(現・京都府)宇治山本村から江戸に上り、1690年に日本橋で和紙や茶・茶器類等を扱う「鍵屋」を創業します。これが現在も続く「山本山」の始まりです。
「鍵屋」の屋号はその後「紙屋嘉兵衛」「都竜軒嘉兵衛」「山本屋嘉兵衛」「山本屋嘉兵衛商店」と変化していきます。その後1941年に、販売していた人気の茶の名前から店名を「山本山」としました。
4代目・山本嘉兵衛~山本山の躍進と「永谷園」
4代目・山本嘉兵衛の時代に、「山本山」躍進のチャンスが訪れます。「青製煎茶製法」を開発した「永谷宗円」が、煎茶を売り込むため山本山を訪れたのです。
他の茶商では相手にされなかったこの煎茶を飲んだ4代目・山本嘉兵衛は、茶の色の美しさ、味わいの深さに驚き即座に買い取ることを決めます。この煎茶はその後「天下一」と名付けられ、江戸はもとより全国的な大人気商品となるのです。
これにより山本山は莫大な利益を得たことに感謝し、永谷家に対し小判25両を約130年間送り続けたというエピソードが残っています。そして、この永谷宗円から数え10代目の永谷嘉男により「永谷園」は創業されるのです。
5代目・山本嘉兵衛~「狭山茶」の発掘
5代目・山本嘉兵衛は、現在の埼玉県で栽培されていた「狭山茶」を発掘しました。
もともと茶の産地であった狭山では、当時全国的に人気を博した煎茶製法にならい茶を作り始めます。5代目・山本嘉兵衛が、その味の良さに気づき製法へのアドバイスを繰り返し、できあがった物が「狭山茶」です。
1819年に売買契約を交わし「霜の花」「雪の梅」と名付け売り出すと人気を博しました。狭山茶は「静岡茶」「宇治茶」と並んで「日本三大茶」と称される存在になり「味は静岡、香りは宇治よ、味は狭山でとどめさす」という茶摘み歌が残っているほどです。
6代目・山本嘉兵衛~「玉露」を創りだす
6代目・山本嘉兵衛は玉露の製法を編み出したといわれています。
当時はどの茶商も普及しきった煎茶の差別化に、しのぎを削っていました。そんな中、6代目・山本嘉兵衛が京都(宇治)を訪れた際、製茶中に茶葉を露のように丸くあぶることを思いついたことが「玉露」誕生のきっかけといわれています。
「玉露」は、そのまろやかで上品な風味が旗本や大名から評判を呼び人気となりました。
ちなみに名前の由来は、玉露独特の旨みが玉の露のようだからという別の説もあります。さらに、明治時代に現在の形(棒状)へと玉露を完成させたのは、辻利右衛門(「辻利」創業者)といわれています。
日本茶の歴史|杉山彦三郎
生涯を通じ茶の木の品種改良を追求した情熱の人。地元静岡では、没した後も「彦三郎翁」と呼ばれ敬われる「やぶきた」生みの親、杉山彦三郎について解説します。
杉山彦三郎とは
杉山彦三郎(すぎやまひこさぶろう)は、安政4年(1857)安倍郡有度村(現・静岡市)に生まれました。父の営む造り酒屋と漢方医の後継は弟に譲り、彦三郎は農業の道に進みます。
ちょうど彦三郎が生まれた頃、日本はアメリカと修好通商条約を締結し、お茶は生糸に次ぐ輸出品となり、花形産業へと発展します。そんな時代に杉山彦三郎が始めたお茶栽培は、師を持たず体験から学びながらのものでした。
急速な発展のため、玉石混交の茶業界で粗悪な商品を取り締まる茶業組合の幹事を勤めますが「自分自身が優良なお茶を産出できないことを恥じている」という述懐から誠実な人柄がうかがえます。
苦労を重ねて品種改良に成功し、「やぶきた」を生み出したものの、その隆盛を見ることなく昭和16年(1941)に83歳で亡くなりました。
現在では、静岡市内に胸像碑が建てられ、「やぶきた」の原木は静岡県の天然記念物に指定されるなど、その功績が認められています。また茶業功労者への表彰を行う「杉山彦三郎賞」も存在します。
日本のお茶を変えた杉山彦三郎の功績
「品種改良」の始まり
自ら山野を切り開き茶園を造成し、ほぼ独学でお茶栽培を始めた彦三郎は勧農局(農業振興を掌じる内務省の内局)の役人などからお茶作りを学び、遠縁の茶師・山田文助から製茶を学びました。
「良いお茶を作るためには、まず良い茶葉が必要」とする茶師・山田文助に付いてお茶を観察するうちに、「お茶の成長には早いものと遅いものがある」「品種により茶葉の良し悪しに差がある」ということに気づきます。
これらは今でこそ当然のことですが、当時は一つの茶園にさまざまな品種が混在し、収穫する茶葉の品質にバラツキがあることが当たり前でした。そんな状況の中で、この気づきは大きな発見であり品種改良への第一歩だったのです。
「やぶきた」の開発
良質のお茶を安定して生み出すためには、優良な茶の木が必要だと確信した彦三郎は、品種改良に力を入れます。しかしそれは学問的知識が無いままに、ひたすら試行錯誤を繰り返す作業でした。
今でこそ、彦三郎のしたことは「品種改良」と認識されますが、当時は人々に理解してもらえず、変わり者扱いされる始末。
それでも、35歳頃から次々と新品種を開発していきます。そんな中、良い茶の木を選び出し藪の北側に植えたものを「やぶきた」南に植えたものを「やぶみなみ」と命名し栽培を始めます。すると「やぶきた」は病気に強く育てやすい上、バランスの良い味の茶葉を付けることが判明。
「やぶきた」は発表後に品質を認められはしたものの、戦争を挟んだため彦三郎の死後14年を経てようやく日本中に広まったのです。
地元の茶業振興に尽力する
杉山彦三郎の功績は、品種改良だけにとどまりません。
50代になり、ようやく「茶業中央会議所会頭の大谷嘉兵衛」という支援者を得て、試験地での品種改良事業に取り組みましたが、大谷氏が会頭の座を退くと茶業中央会議所から引き続きの援助は得られず、試験地を返上という窮地に立たされます。
しかし、77歳の彦三郎はこの窮地に屈しませんでした。
自ら購入した茶園で研究を続け、近隣の青年達に協力を要請し、自ら培った品種改良の知識や経験を後生に引き継ぐことに尽力します。また、近隣の農家にも惜しみなく知識を伝え、新しく機械が開発されればそれを導入していち早く製茶業の機械化を図り、地元の川の改修・茶園周辺の整備など郷土の茶業振興のために尽くしたのです。没してなお「彦三郎翁」と地元で慕われ敬われる理由はここにあります。
杉山彦三郎の情熱を物語る3つのエピソード
「イタチ」と呼ばれた男
良い茶の木を見つけるために、彦三郎は昼夜を問わず茶畑をうろつき、時には人の畑にまで入ったといわれています。地面を這いつくばって茶畑を動き回る姿から「イタチ」と嘲笑されても、理想の茶の木を探すことを止めませんでした。
「この木こそは!」と思う茶の木を見つけると、その茶葉を生のまま噛み吟味していたため、前歯が欠けていたという逸話も残っています。
持てる情熱を全て傾けて、理想の品種を追い求めたのです。
お茶のためならどこへでも
彦三朗の「良いお茶を見つけたい」という情熱は、とどまるところを知らず彼を動かしました。
交通手段が発達していない時代に日本国内はもちろん、韓国にまで茶の木を探しに出向いたのです。良い茶の木に出会ったときに持ち帰るため、旅には保水用の水苔を必ず持参し、時には野菜の切り口に枝を刺して持ち帰ったといわれます。
20年の苦労が全て薪にされても
支援者を失い、試験地を返上せざるを得なくなったとき、彦三郎は77歳。その試験地で20数年にわたり心血を注ぎ育てた茶の木は、全て抜かれ薪にされてしまいます。
77歳という高齢で、このような試練に遭ったにもかかわらず、今度は私財をなげうち研究を続け、後進を育てた彦三郎の情熱は執念ともいえます。
お茶栽培の素人であった杉山彦三郎が、生涯をかけて達成させた苦労や情熱を思うと、いつものお茶が味わい深く特別なものに感じられるのではないでしょうか。
お茶の肥料
お茶を栽培する際に使われる「肥料」。
肥料を適切に使うことで茶の香りや味を好みの味に仕上げることができます。
今回はその肥料の種類やメリット・デメリットについて詳しく解説していきます。
お茶に使う肥料について
お茶に使う肥料の目的は、品質の高い茶葉を多く収穫するためです。そのために必要な養分を施していきます。このことを「施肥(せひ)」といいます。
施肥の中心となる成分は、窒素(N)・リン酸(P)・カリウム(K)で、肥料の三代要素と呼ばれています。
茶葉はアミノ酸を多く含む作物のため、特に窒素の供給が重要になります。
肥料は大きく2つの種類に分けられ、「化学肥料」と「有機肥料」に分類されます。
それぞれの肥料にどういった特徴があるのでしょうか。
化学肥料
化学肥料とは、植物の生育に不可欠な成分を化学的に操作し、その濃度を高めて作った肥料です。
窒素肥料やリン酸肥料、カリ肥料など、肥料成分単体で作られた「単肥(たんぴ)」と、これらを混ぜて作った「化成肥料」があります。
有機肥料
有機肥料とは、動物の糞や食べ物かすなどの有機物から作った肥料です。
菜種かすや大豆かすなどを使った植物質肥料と、魚かすや魚粉などを使った動物質肥料があります。また、これらの原料を微生物で発酵させた「ぼかし肥料」という肥料もあります。
肥料を使うメリット・デメリット
次に「化学肥料」と「有機肥料」それぞれにおいて、使うメリット・デメリットを解説していきます。
化学肥料のメリット
肥料が成分ごとに分かれているため、作用して欲しい内容に応じて肥料を使い分けることができます。成長をみながら肥料の種類や量を選べるため、肥料管理がしやすくなります。
特に窒素はお茶の旨味成分を左右するため、窒素肥料の量でお茶の旨味を好みに仕上げることが可能になります。
化学肥料のデメリット
茶樹には吸収できる肥料分の量に限界があるため、過剰に施肥をすると茶樹が吸収障害になってしまい、収量が減ったり品質が悪くなったりしてしまいます。
また化学的に作られた肥料であるため、環境への影響も懸念されています。
有機肥料のメリット
有機分を多く含むため、土壌に住む微生物のエサになりその働きを活発にさせてくれます。その微生物の作る生成物により土壌の質が良くなることで茶樹の育ちも良くなります。
また、食べ物などの有機物で作られた肥料のため環境にも優しいのが特徴です。
有機肥料のデメリット
化学肥料に比べ即効性がなく、施肥のタイミングが難しくなります。
誤った肥料管理をしてしまうと、生育を遅らせたり収量を減らしてしまったりする可能性があるため、土壌や気候、発育状態などに常に気を配りながら肥料を管理する必要があります。
お茶の被覆栽培・被せ
お茶の栽培方法の一つである「被覆栽培」。
この方法で作られた茶葉は「玉露」や「碾茶」「かぶせ茶」に加工されますが、なぜこれらのお茶を作るのに被覆栽培が行われるのでしょうか。
被覆栽培って?
被覆栽培とは新芽の育成中に茶樹に覆いをかけ、一定期間日光を遮って栽培する方法のこと。茶業界では「被せ」とも呼ばれる方法で、高品質な茶葉を作る際に多く行われる栽培方法です。
この被覆栽培を20日間前後、もしくはそれ以上の期間行って作られるのが玉露や碾茶(抹茶の原料茶)、それらよりも期間を短くし10日前後の被覆で作られるのがかぶせ茶です。
被覆栽培の目的は?
この被覆栽培、50mにも及ぶ長いネットを茶畑の畝一本一本にかけ、摘採前には再びそのネットを回収してから摘採を行うため、非常に手間と時間のかかる作業です。
では、そんな面倒な被覆栽培を行う目的は何なのでしょうか?
味・香り・水色の三つの観点から、被覆栽培のメリットについてご紹介します。
被覆栽培によって作られる濃厚な旨味
被覆栽培を行う一番の理由は、やはりお茶の「旨味」にあります。
お茶の主な旨味成分である「テアニン」は、日光に当たることで渋味成分である「カテキン」に変化するという性質を持っています。
被覆栽培では日光を遮って栽培することで、テアニンがカテキンに変化するのを防ぐことができ、旨味をたっぷりと蓄えたお茶を作ることができるのです。
また、カテキンよりもさっぱりとした苦味のカフェインは、遮光することでその量が増えるため、被覆栽培のお茶は露天栽培のお茶に比べ、渋味・苦味が軽くなり甘みを感じやすくなります。
被覆栽培で作られる香り「覆い香」って?
被覆栽培を行うことによって、茶葉には「覆い香」と呼ばれる、海苔のような独特の香りが付加されます。
これは「ジメチルスルフィド」という香気成分が作られることで生まれる香りで、この成分は多すぎると悪臭の原因となりますが、少量であれば他の香気成分と混じり合い、お茶の爽やかな香りを作り出してくれるのです。
被覆栽培を行って作られた証拠とも言える「覆い香」は、高級茶の証とも言える香りなのです。
ただし「覆い香」が付加される分、茶葉や品種そのものが持つ香りが若干弱まってしまうため、そういった香りを残したい場合には不向きな栽培方法です。
鮮やかな濃緑を作り出す被覆栽培
被覆栽培は、茶葉の色、ひいては水色も変化させます。
日光を遮ることで、茶葉はより少ない日光で光合成を行うために、茶葉中の葉緑素(クロロフィル)を増やします。葉緑素は葉の色素なので、通常の茶葉と比べて緑色が濃くなり、鮮やかな濃緑の茶葉に育つのです。
また、少しでも日光を浴びる面積を広げるために、茶葉はより大きく、そして薄く育ちます。通常の茶葉よりも薄く育った新芽は柔らかく、加工がしやすいため、ピンと針のように伸びた美しいお茶が作れることも、被覆栽培の目的の一つです。
被覆栽培で作られるお茶
上記のように、被覆栽培のお茶は露天栽培のお茶に比べ、鮮やかな緑色の水色になり、覆い香から生まれる芳潤な香り、そして濃厚な旨味を感じられる味わいが特徴です。
この鮮やかな色味、渋みの軽い味わいが「玉露」や「碾茶」に適しています。
日本最高級の緑茶「玉露」
「玉露」は最高級の緑茶とされており、作られる際には、20日間もの期間、被覆栽培が行われます。
多くの場合手摘みで作られ、被覆栽培の手間も含めて、非常に丁寧に作られるお茶です。
手間隙をかけて作られる、トロッとした舌触りと共に広がる濃厚な旨味と芳醇な香り。品評会で高い評価を受けたものは、1kg30万円もの値が付くこともある、正に最高級のお茶です。
鎌倉時代から続く伝統のお茶「碾茶・抹茶」
鎌倉時代初期に中国から伝わり、現代も茶道で使われる「抹茶」、そしてその原料となる「碾茶」も、20日間もの被覆栽培を経て作られています。
抹茶はその色が非常に重要となるため、鮮やかな水色を作り出すために被覆栽培が行われるのです。
玉露と煎茶の中間「かぶせ茶」
三重県で多く作られる「かぶせ茶」は、10日間前後の被覆栽培で作られる、ちょうど玉露と煎茶の中間のようなお茶です。
通常の煎茶と比べて旨味が濃く、覆い香も感じられるかぶせ茶は、日々のちょっとした贅沢にピッタリです。
お茶の有機栽培
お茶の栽培方法の一つである「有機栽培」。
そもそも有機栽培とはどういったものかご存知でしょうか。実は厳しい基準があり、それを満たさなければ有機栽培という表記は認められません。今回はその有機栽培について詳しく解説していきます。
有機栽培って?
有機栽培とは、「化学的に合成された肥料及び農薬を使用しないこと・遺伝子組み換え技術を利用しないこと・農業生産に由来する環境への負荷を出来る限り低減する」方法を用いて行われる農業です。
具体的には、禁止された農薬や化学肥料を使わず、自然が本来持っている生態系に配慮しながら栽培する方法を指します。
無農薬栽培というものもありますが、有機栽培とは規定が違うため全く同じではありません。有機栽培は農薬の散布の有無だけでなく、土壌づくりや種の仕入れ先に至るまで厳しい基準が設けられています。
JAS認証について
JAS認証とは、農産物や加工食品に対して、有機栽培の基準を満たしたものに付けられる証です。
農林水産大臣が定めたJAS法に基づいて、登録認定機関が調査し、この検査を通ったものだけが「有機」や「オーガニック」という表示を許されます。
JASマークをつける場合は、必ず検査を行った検査機関名と認定番号の記載が必要になります。
お茶の有機栽培
お茶の有機栽培は、化学合成農薬・化学合成肥料・化学合成土壌改良材を使わずに3年以上を経過し、堆肥などによる土づくりを行った場所で収穫されなければなりません。
肥料を使う場合は、基準を満たした有機肥料のみが使用可能です。有機栽培を行う農家が肥料を使う場合は、主に自家製のぼかし肥料(発酵肥料)を使っています。
また栽培中は、虫や病気が急激に増加しないよう、適切な時期に葉を刈り取ったり、茶樹に栄養を行き届かせるために雑草を刈り取るなど、手間と時間をかけて茶葉を育てます。
有機栽培のお茶の特徴
野生に近い状態で育つため、茶葉本来のもつ味わいが最大限まで引き出されたお茶がつくられます。
香りは力強いものの、それでいて苦味や渋味はきつくなりすぎず、ほどよいコクと爽やかな後味が楽しめます。
有機栽培のメリット
通常の茶葉の場合、お湯や水に淹れるとどうしても農薬も一緒に溶け込んでしまいます。
体に害はない量であっても、農薬を一緒に摂取してしまうことになり、長年摂取することに対して懸念されています。
しかし、有機栽培の茶葉はその心配が全くなく、化学物質過敏症でも安心して飲むことができます。
また、栽培に農薬を使わないことで、環境にも優しく、生態系に悪影響を及ぼしません。そのため、未来の農業の維持や安定に繋がることが期待されています。
有機栽培のデメリット
有機栽培への転換初期は病害虫の発生が多く収量が不安定になってしまいます。
有機肥料の扱いも難しく、化学肥料に比べ成分が安定しないため、常に土壌や作物の状態を見極めて肥料の管理をしなければなりません。
天候による不作や害虫や病気による茶樹への悪影響を受けやすくなるため、収量や品質の面で、毎年安定した生産が難しいとされています。
土壌が安定するまでの長い年月と、知識・技術がなければ、有機栽培で安定した収量を得ることは難しくなります。
また、除草剤を使わないため、畝間に生えた雑草を取り除く「草取り」の作業が、一年を通して発生するため、農作業の負荷が増えることもデメリットの一つと言えます。
お茶の成分|サポニン
サポニンは配糖体の一種で、お茶にごく微量に含まれる成分です。
抗菌や解熱、抗喘息などの効能があります。
ここでは、サポニンの基本情報から味、効能までご紹介していきます。
サポニンって?
サポニンは配糖体の一種で、お茶にごく微量に含まれる成分です。
石鹸を意味する「シャボン」と語源が同じで、抹茶の泡立ちなどに関与しています。
サポニンはすごく苦い?
サポニンは、独特の苦味や渋味、えぐみを持つ成分です。
ただ、前述の通りサポニンはお茶にごく微量にしか含まれていません。
したがって、サポニンによってお茶が著しく苦くなるということはありません。
サポニンは動物界にも存在する?
サポニンは、植物界の中に多く存在する成分です。
例を挙げると、キキョウや甘草、ナツメの実の中にサポニンが含まれています。
ただし、サポニンは植物に限定された成分というわけではなく、ナマコやヒトデなどの動物もサポニンを保持しています。
※参考:『岩波生物学辞典(第5版)』
サポニンの効能
サポニンには、以下のような効能があります。
- 抗喘息
- 抗菌・抗ウィルス
- 消炎・解熱
- 鎮静
- 血圧を下げる
- 抗肥満
※参考:薬学用語解説(公益社団法人日本薬学会)、機能性成分・活用性等調査(独立行政法人 農業・食品産業技術総合研究機構)、『日本茶のすべてがわかる本』(農文協)
効能として「抗菌・抗ウィルス」を挙げましたが、サポニンは特にインフルエンザウイルスを撃退するのに効果的だと言われています。
そのため、体調の悪い時には薬と併せてお茶でうがいなどをするのも良いでしょう。