茶器|磁器
この記事では、焼き物の中でも「磁器」についてご紹介します。
磁器って?
磁器は白く半透明で表面の肌理が細かく、つるつるとした手触りの焼き物。ガラス質が多く含まれているので光に当てると少し透き通る場合もあります。
磁器の原料である土に多く含まれる長石や珪石は、高温で焼き締めることで結晶化し、とても硬くなる性質を持っているので、陶器に比べて丈夫で薄くて軽い焼き物を作ることができるのが磁器の特徴。
また、磁器でできた茶器は吸水性がなく表面がツルツルしているため、お茶の香りや成分が茶器に吸着しにくく、茶葉が持つ本来の味や香りをそのまま出すことができます。
手入れが簡単で、コツなしで美味しいお茶が淹れられる茶器として初心者には特におすすめです。
日本の磁器
日本の代表的な磁器をご紹介しましょう。
有田焼
有田焼は佐賀県の有田町周辺の地域で生産されている焼き物。
今から400年前に日本で初めて磁器を作ったのがこの有田焼で、世界的に有名なブランド「マイセン」にも影響を与えたといわれています。
有田焼は透き通るような白磁にさまざまな色で鮮やかに絵柄がつけられており、特にヨーロッパでは昔から現在まで「IMARI」という愛称で高い人気を誇っています。
磁器は基本的に複数の土を配合して焼くのですが、有田焼は1種類の陶石のみを使って作られる世界的に見ても非常に珍しい磁器で、特に透明感のある白磁は「白い金」と称えられ、世界中から高い評価を得ています。
九谷焼
九谷焼は石川県の金沢市・加賀市・美濃市・小松市で生産されており、磁器だけでなく陶器も作っています。
宮内庁が海外の著名人や皇族への贈答品として使っており、イギリスのチャールズ皇太子の結婚祝いとしても献上された由緒正しき焼き物。
九谷焼は「上絵付けを語らずして九谷はない」と称されるほどの日本を代表する色絵陶磁器で、華やかな茶器も有名です。
上絵付けとは、本焼きした後に顔料で絵をつけ、約800度の高温で焼きなおす技法のことで、焼きなおすことで作品に唯一無二の味のある模様がつきます。
また、九谷焼の上絵付けは「赤、黄、紫、緑、紺青」の色彩を使うことから五彩手と呼ばれ、その豪華爛漫な大胆な色合いと絵付けは一度見たら忘れられません。
波佐見焼
波佐見焼は長崎県にある波佐見町とその付近で作られています。
焼き物と聞くと高級なイメージがありますが、波佐見焼は日常的に使う庶民的な食器などを作っており、日本の日用食器の20%弱が波佐見焼の食器です。
波佐見焼にはこれといった技法がなく、さまざまな作家がその時代に求められる形・デザインの焼き物を柔軟に作っているので、デザインも大きさもバラエティーに富んでいます。
見た目のお洒落さと、専門店だけではなく食器屋や雑貨屋などでも気軽に購入できることから、最近はもともと焼き物に興味を示さなかった若い世代から支持を得て話題になっています。
茶器|陶器
日本には昔から多くの茶器が作られており、その素材もさまざまです。
この記事ではいくつもある素材の中で最もメジャーな素材のひとつである「陶器」をご紹介します。
陶器って?
陶器は長い茶器の歴史の中でも、特に多くの名作を残しています。
粘土を原料としていて、いわゆる「土もの」と呼ばれる素朴で重厚感のある見た目の焼き物です。
磁器に比べると低めの900度〜1200度の熱で焼成するため、高温で一気に焼き締める磁器に比べると脆く、割れにくいように厚めに作られてます。
厚みがあることで熱伝導率が低く、淹れたお茶が冷めにくいうえに、茶碗を持つ時に熱さを感じにくいため茶碗に向いている素材です。
また、吸水性があるので色や汚れがつきやすく、ほかの茶器に比べるとお手入れに手間がかかりますが、使うたびに色などが変化していくその様子に趣を感じて、愛用する茶人が多いのも特徴です。
日本の陶器
日本の有名な陶器をご紹介しましょう。
益子焼
益子焼は栃木県益子町で作られている焼き物で、国の伝統的工芸品に指定されています。1966年から開催されている益子陶器市は毎年約60万人が集まるほどの人気ぶり。
益子焼に使われている陶土は細かい作品に向かず厚みが必要なため、ぽってりとした愛らしい見た目が特徴です。また、砂気が多いので見た目にもさわり心地にも素朴な味わいがあります。
益子焼は江戸時代に誕生してから幾度となく存続の危機に直面しましたが、大正時代に行われた民芸運動をきっかけに日本を代表する焼き物となり、今では250もの窯元を持ち、多くの作家が思い思いの作品を創作しています。
萩焼
萩焼は山口県の萩市を中心に生産されている陶器です。
茶陶として発展してきた萩焼は、昔から「一楽、二萩、三唐津」と賞されてきました。これは茶人の茶碗の好み、あるいは格付けを表した言葉で、萩焼が昔から高く評価されていることがうかがえます。
素材そのものを生かした素朴なものが多く、色付けや装飾はほとんど行いません。
萩焼は使う陶土や生産工程の影響で陶器に無数の細かい貫入(かんにゅう)というヒビが入るのが特徴。
長年使うことでお茶などの成分が貫入に少しづつ染み込み、茶器の色などの趣が変化していくのですが、この現象は茶人の間で「茶慣れ(ちゃなれ)」や「萩の七化け(はぎのななばけ)」と呼ばれ、使う人により表情が変わる茶碗として重宝されています。
また、萩焼には100を超える窯元がありますが、ほとんどの窯元が小規模で作家として活動しているため、一点物が多いのも萩焼の特徴です。
瀬戸焼
瀬戸焼は愛知県の瀬戸市で作られている焼き物で、陶器だけでなく磁器も作られています。
日本では陶磁器全体を表す言葉として「せともの」が使われますが、これは瀬戸焼からきています。それほど日本の陶芸界に大きな影響を与えた焼き物がこの瀬戸焼。
瀬戸焼は「日本三大焼き物」「日本六古窯」のひとつに数えられる由緒正しき焼き物で、特に茶器に関しては多くの名器を輩出してきました。
また、瀬戸は良質な粘土や陶石などの焼き物の原料が豊富にとれるため、その豊富な原料を生かして幅広い作品が作り続けられています。
茶器の素材の違い
「茶器」と一言でいってもさまざまな素材が使われており、それによりお茶の味も少しずつ変わります。
この記事では茶器に使われる素材についてご紹介しましょう。
素材の種類
焼き物といえば「陶器」と「磁器」が有名ですが、それ以外にもさまざまな素材があります。
磁器
磁器は白く半透明で表面のキメが細かく、つるつるとした肌触りの焼き物。
磁器の原料である土に多く含まれる長石や珪石は、高温で焼くことで結晶化して硬くなる性質を持っているので、陶器に比べて丈夫さを保ったまま薄くて軽い焼き物を作ることができます。
また、吸水性がないため色やシミがつきにくく、日常使いの食器にも多く使われます。
磁器の代表的な焼き物には有田焼や九谷焼などがあり、海外ブランドだとマイセンが有名です。
関連リンク:茶器|磁器
陶器
陶器は、陶土という粘土を形成して作る、いわゆる「土もの」といわれる焼き物で、茶道の茶碗などでよく見かけます。
陶器は低温で焼成するので、原料に含まれる材料同士の結びつきが弱く、磁器に比べると脆いのが特徴。そのため割れにくいように厚めに作られているのですが、器が厚いことで熱伝導がしにくくなり、淹れたお茶が冷めにくく、長い時間美味しく味わうことができます。 陶器は長いお茶の歴史の中で、茶器の名作を特に多く生み出しています。
関連リンク:茶器|陶器
炻器
炻器(せっき)の原料は石。岩石を砕いて作った粉と粘土を混ぜて形成する、陶器と磁器の中間に位置する焼き物です。 叩くと磁器に近い高い音がなりますが、陶器のように吸水性も透光性もありません。
見た目はどちらかというと陶器よりで、日本独特の素朴で落ち着いた雰囲気を持っています。
陶器磁器に比べて炻器という素材自体はあまり知られていませんが、炻器の焼き物は多く存在し、薪の灰が溶けてできる自然釉が特徴の越前焼・たぬきの置物が有名な信楽焼・急須のシェア率日本一の常滑焼も炻器です。
関連リンク:茶器|炻器
ガラス
珪砂や硼砂、硼酸などの鉱物で作られたもので、耐熱ガラスが使われています。
ガラス茶器は幅広い用途があり、緑茶はもちろんのこと紅茶や中国茶を淹れる時に活躍します。 特に中国茶の一種である花茶などを淹れる際には、お湯の中で少しずつ開いて優雅に揺れる茶葉を眺めることができ、飲む前からお茶の時間を楽しめます。
また、ガラスの茶器は手入れや取り扱いが簡単なのでお茶初心者の方も安心して使うことができるのも魅力のひとつ。
茶道の茶碗といえば焼き物のイメージが強いですが、夏には宙吹きでひとつずつ手作りされた美しいガラス製の茶碗もよく見かけるようになります。
金属
一般的な原料としては、鉄・ステンレス・銅・アルミなどがあります。
お茶に使う水を沸かすヤカンや、お茶を淹れる時の茶こしなどに使われますが、茶器としてよく使われるのが金属の中でも銅の素材。
銅は調湿性を持つので、銅製の茶筒に入れた茶葉は風味が長持ちするといわれています。
素材による味の違い
お茶は繊細な飲み物なので素材によって味が変化します。
磁器やガラスは吸水性がないので香りや成分が吸着しにくく、お茶の持つ味や香りをそのままストレートに出すことができます。
逆に陶器は吸水性が高いので茶器が余分な成分や渋味を吸着し、雑味のない味に仕上げてくれます。
磁器と陶器のどちらの性質を持つ炻器は渋味のもとになるタンニンを吸着してくれるので、渋味の少ないまろやかな味わいに。銅は銅イオンが水道水に含まれる雑味を分解し、水そのものをまろやかな味わいにしてくれ、さらに熱伝導に優れているのでお茶の出を早め、渋味が少なく甘味と香りが豊かなお茶が淹れられます。
新茶・一番茶・二番茶って?
アッサム種と中国種
お茶の品種は日本で登録されているだけでも100種類以上。未登録の在来品種や研究中の品種、世界に存在する品種を加えれば、途方も無い数の品種が存在します。
しかし、そんな沢山の品種の元になる木は地球上にたったの2種類です。
お茶の品種は2つだけ?中国種とアッサム種
茶はツバキ科の植物で、学名を「カメリア・シネンシス(Camellia sinensis(L)O.Kuntze)」といい、紅茶も烏龍茶茶も緑茶も、全てこの植物から作られています。
この茶の木は大きく、中国種とアッサム種の2種類に分類されます。そこからそれぞれ派生して、さまざまな品種が生まれているのです。
2019年現在、日本で農林水産省に登録されている品種は119種。茶産地としては比較的冷涼な地域にあたる日本では、栽培されているほぼすべてのお茶が中国種に属しますが、中には中国種とアッサム種が交配して生まれた品種も存在します。
中国種の特徴
中国種は中国の雲南省を原産とする品種で、渋味成分である「カテキン」の含有量が少く、酸化酵素の活性も弱く酸化発酵がしづらいため、緑茶に多く使われる品種です。
アッサム種と比べると茶葉が小さく、最大でも3mほどまでしか伸びない灌木型の品種です。
耐寒性が高く、寒くて乾燥した場所で育つことはもちろんのこと、順応性が高いので暑くて湿度の高い場所でも育つため、日本・中国・台湾や、インドやスリランカの高地などで栽培されています。
日本では”やぶきた”や”ゆたかみどり”、”さえみどり”など、ほぼ全ての品種がこの中国種に属します。
中国種の歴史
お茶の起源は中国。その歴史は紀元前から始まり、神話にも出てくるほど昔からお茶はありました。
お茶の発祥に関しては諸説ありますが、雲南省西南地域で初めて茶の木が発見されたという説が有力です。このころ、お茶の葉は薬として認識されていて、嗜好品として飲まれ始めたのは紀元前59年ごろ。
760年ごろには世界最古のお茶の専門書『茶経』が完成し、飲み方や淹れ方が今のスタイルに近付きます。805年には日本にお茶が伝わり、日本のお茶の歴史はここから始まり今に至ります。
1610年頃にはヨーロッパにも初めてお茶が輸入されます。台湾にお茶が持ち込まれたのは、さらに遅い1810年ごろです。
アッサム種の特徴
アッサム種はインドのアッサム地方を原産とする品種で、渋味成分となる「カテキン」を多く含み、酸化酵素の活性が強く酸化発酵がしやすいため、主に紅茶や烏龍茶に使われる品種です。
中国種と比べると茶葉が大きく、葉面には深くシワが走っているのが特徴です。また、中国種と違い喬木型なので、最大で10mほどまで直立することもあります。
寒さに弱く、高温多湿の気候を好むため、インド・スリランカ・インドネシアなどを中心に栽培されています。
日本で作られる紅茶向け品種である”べにふうき”や”べにひかり”、”べにほまれ”は、アッサム種と中国種を交配して作られた品種です。
アッサム種の歴史
アッサム種は、1823年にインドのアッサム地方で見つかった野生の茶の木です。その歴史は200年と中国種に比べて遥かに短く、非常に新しい品種と言えるでしょう。
1780年代、既にインドでは、輸入した中国種の茶の木の栽培がされていました。
中国種ではなく、自国の野生の茶の木がどこかにないかと探されていましたがなかなか見つかりません。
1823年、イギリス人の植物研究家ロバート・ブルースがインドのアッサム地方に遠征した際に、見たことがない茶の木を見つけました。これが後のアッサム種なのですが、インドの植物学者は「これは茶の木ではなくツバキの木だ。」と判断を下し、茶の木と認められることなく、ロバートは失意のまま亡くなります。
その後、ロバートの意志を継いだ実の弟・チャールズの努力により茶の木と認められ、アッサム種が公に認められました。
1838年、チャールズ監督の元、アッサム種から作られた初の国産緑茶が完成。翌年にはロンドンでオークションにかけられ高値で取引されました。
このことで茶業への期待と関心が高まりますが、アッサム種が発見されたアッサム地方は危険な野生動物や毒蛇が生息しており、開拓が非常に困難な地域。さらにマラリヤやコレラなどの感染症の流行が重なったり、安全な輸送ルートが確保できなかったりと、多くの人々の血と汗が流れました。
その結果、発見から27年後の1850年あたりからお茶の生産も軌道に乗り、東南アジアやアフリカでもアッサム種のお茶の栽培が始まります。
その後紅茶が生まれ、イギリスを中心に世界中に浸透し、今に至ります。
日本茶の歴史|明治・大正時代
明治時代、お茶は重要な外貨獲得の手段として大量に輸出されていました。
ここでは、明治・大正時代におけるお茶の歴史や、お茶づくりの機械化などについてご紹介していきます。
お茶は日本の主産業へ
明治〜大正時代、お茶は日本の重要な輸出品目として捉えられるようになっていました。
そのきっかけとなったのは、江戸時代における欧米との修好条約の締結です。当時、長崎の出島を貿易の窓口として、181トンものお茶が海外に輸出されていました。
そして、明治維新後もお茶は輸出品の主軸としての地位を占め続け、その輸出量は2万トンにも達します。
大谷嘉兵衛の功績
明治時代のお茶産業の発展に最も大きな功績を残したのは、大谷嘉兵衛という人物です。
もともと大谷は横浜最大のお茶の売り込み商でしたが、明治27年(1894年)には日本製茶株式会社を設立します。
彼は、輸出茶の品質管理などを徹底的に行なったほか、アメリカが茶に対する関税をかけた際には渡米して製茶関税の撤廃運動を実施するなど、日本の茶産業の振興に人生を捧げた人物でした。
お茶の機械化
日本の中でお茶が重要な外貨獲得の手段となっていたことはすでに述べた通りです。 しかし、当時の日本には急増する需要に応えるための製造手段がまだありませんでした。
そこで、明治時代にはお茶を効率的に製造するための機械化が進められていくことになりました。 中でも、お茶の機械化を進めていく中で大きな役割を担ったのが高林謙三という人物です。
彼はもともとは医師でしたが、のちに製茶業に携わる発明家に転身。明治17年(1884年)に焙茶機などをを製造したほか、明治29年(1896年)には粗揉機を完成させ、それまで手揉みで行なっていた作業を大幅に効率化させました。
その他、収穫の効率をアップさせるための手バサミなども考案され、輸出のためのお茶の大量生産が徐々に可能になっていったというわけです。
牧之原台地の開拓
静岡県は現代でも日本有数のお茶の産地ですが、そのきっかけとなったのは明治時代における牧之原台地の開墾でした。
そもそも牧之原台地は、江戸時代末期までは何もない荒地でしたが、お茶の輸出がはじまって需要の高まりに伴い、開墾されることになります。
その開墾にあたったのは、明治維新の「四民平等」によって職を失った士族たち。 中でも200人以上の武士からなる「農業素人集団」を率いて開拓事業に当たった中条景明は、現代の牧之原におけるお茶作りの基盤を作った人物として、現代にまで語り継がれています。
荒地だった牧之原台地の開拓は非常に難航し、士族たちは慣れないクワや過酷な労働に嫌気がさし、徐々に離散していってしまいます。 それ以後も、その作業は川渡しの人足たちに引き継がれていきますが、やはり過酷な労働や貧困に耐えきれず、多くの人々が脱落していったと言います。
現代でも私たちが静岡県の良質なお茶を楽しめているのは、そのような人々の苦労や努力があってのものなのです。
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日本茶の歴史|室町・安土桃山時代
日本の茶の湯文化が花開くのは、室町〜安土桃山時代。 村田珠光や武野紹鴎、千利休といった茶人たちの活躍によって現代の茶道の基盤が形作られることになりました。
ここでは、そんな彼らの功績や、侘び茶の概要などについてご紹介していきます。
「茶の湯」の大成
「茶の湯」は、客を招いてお茶の席でもてなすことを指します。
現代では「茶道」と呼ばれることが一般的ですが、茶道というのは江戸時代に芸道を指す言葉として使われるようになったもので、室町時代や安土桃山時代では「茶の湯」という呼び方が主流でした。
そんな茶の湯を大成した人物としては、村田珠光・武野紹鴎・千利休が挙げられます。
ここでは、そんな3人の功績を簡単に振り返っていきましょう。
村田珠光
村田珠光(1423〜1502)は、室町時代の茶人です。
もともと珠光は寺の徒弟でしたが、修行に身が入らず、京都にのぼって茶の湯をはじめました。
珠光の功績としては、茶道具や茶室に飾る絵画や墨跡にとことんこだわり抜き、厳選した名物を四畳半の座敷に飾るという独特のスタイルを生み出したことが挙げられます。
彼は「藁屋に名馬をつなぎたるがよし(粗末な空間に良い茶器があるのがよい)」と述べていますが、素朴さや簡素さを愛する茶の湯の基盤がここで形成されたと言えるでしょう。
武野紹鴎
武野紹鴎(1502〜1555)も、村田珠光と同じく室町時代の茶人。
武野紹鴎はもともと有力な堺の町衆でしたが、27歳の時に三条西実隆という貴族から和歌や連歌などを学びます。 その後、出家してさらに連歌を極めるつもりでしたが、当時新しい芸術として芽吹きつつあった茶の湯に目をつけ、珠光の門人たちから教えを受けることになりました。
武野紹鴎の残した功績は、茶室に飾る道具を中国のものに限定せず、南蛮からの渡来品や日本で作られたものなどを自由に飾るようにしたことです。
伝統に固執することをやめ、茶の湯にさらなる創造性を加えたという点で彼の功績は非常に意義深いものだったと言えるでしょう。
千利休
千利休(1522〜91)は、室町〜安土桃山時代の茶人で、一般的に「茶の湯の大成者」として知られています。
彼は10代の頃から茶の湯をはじめ、40代の頃には友人の紹介で織田信長に仕えることになります。 織田信長の死後は天下人となった豊臣秀吉に仕えることになりますが、最終的には切腹に追い込まれて非業の死を遂げました。
ここまで村田珠光や武野紹鴎が茶の湯の基盤を作ってきたことはすでに述べた通りですが、千利休の茶の湯はさらにそれらを洗練したものでした。
彼の茶の湯のスタイルを一言で言い表すとするなら、「究極の簡素美」です。
千利休は、元々四畳半だった茶室をさらに狭くし、きらびやかな装飾を徹底的に排除していきました。 その結果、現代でも親しまれているような、簡素さを良しとする茶の湯の精神が大成されたのです。
「侘び茶」って何?
千利休はしばしば「侘び茶の大成者」とも称されます。
侘び茶とは、辞書的に言うと「わびの境地を重んずる茶の湯のこと」(『日本国語大辞典(第2版)』)を指します。
侘びの精神を一言で説明するのは難しいのですが、簡単に言うと「不完全さや簡素さを謳歌する精神」ということになるでしょう。
たとえば、千利休は茶室から余分なものや贅沢なものを極限まで排除し、一見するとみすぼらしく見えるような茶器を用いて茶事を行いました。
あらゆるものへの執着を捨て、簡素なものの中に真の美しさを見出す。その境地に至ることを目的としたのが、「侘び茶」と言えるでしょう。
宇治茶の振興
千利休が好んで用いたお茶に「宇治茶」があります。
元々宇治茶は、明恵上人という僧侶が宇治にお茶の種を撒いたのが発祥であると言われていますが、16世紀後半になると宇治で「覆い下栽培」という新しい栽培法が開発されます。 覆い下栽培によって作られたお茶は、鮮やかな濃緑色で、強い旨味を持つのが特徴でした。
千利休はそのような宇治茶を好み、最良のお茶として位置付けたのです。
なお、当時飲まれていたのは現代のような煎茶でなく、茶葉を揉まずに乾燥させた碾茶や、それを挽いて粉末状に加工した抹茶でした。
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日本茶の歴史|鎌倉・南北朝時代
鎌倉時代は、私たちがよく知る「抹茶」がよく飲まれるようになった時代です。
ここでは、鎌倉時代におけるお茶作りの普及や、南北朝時代の「闘茶」という文化などについてご紹介していきます。
お茶作りの始まり
一般的には、禅僧である栄西(1141〜1215)が中国から茶の種子を持ち帰り、福岡県の背振山に植えたのがお茶作りの起源であると言われてきました。
しかし、実際の史料を見ると、すでに平安時代には嵯峨天皇が茶の栽培を各地で行わせていたことがわかっています。
京都や東国へのお茶の普及
上述した通り、栄西は日本ではじめて茶を栽培した人物ではありません。 しかし、「京都や東国にお茶を広める」という重要な役割を担った人物でした。
栄西は京都に建仁寺を建立して住職となりましたが、その際に明恵上人という僧侶に茶を贈ります。 そして、明恵上人はそれを梅尾高山寺の境内に植えて栽培し、宇治にその種子を撒きました。 これが「宇治茶」のはじまりだと言われています。
また、栄西は鎌倉の寿福寺の住職も勤めましたが、それがきっかけでお茶が東国に広まっていったと言います。
『喫茶養生記』って?
栄西の残したもうひとつの大きな功績は、『喫茶養生記』という日本ではじめての茶書を執筆したことです。
『喫茶養生記』は元々医学書として書かれたもので、お茶の薬効や茶の栽培方法、喫茶の方法などについてまとめられた書物です。
歴史書である『吾妻鏡』によると、鎌倉幕府の3代将軍源実朝が二日酔いで苦しんだとき、お茶とともにこの本が献上されたと伝えられています。
碾茶って?
奈良・平安時代に主に飲まれていたのは固形茶である「餅茶(団茶)」でしたが、鎌倉時代には「碾茶」が主流となりました。
碾茶というのは、簡単にいえば抹茶の原料になるお茶のこと。 抹茶は碾茶を臼などで挽いて細かい粉末状にしたものです。
当時の抹茶は、禅僧が修行中にくる睡魔を撃退し、精神を集中するために用いていました。
鎌倉時代のお茶・闘茶について
鎌倉時代には、武士や貴族なども社交の席としてのお茶を楽しむようになります。 その場では、客人をもてなすために中国から伝来した絵画や花瓶などを飾り、唐の茶器を使ってお茶を淹れました。
1320年ごろになると、社交の場でお茶を飲む習慣は遊戯性を増していき、お茶を飲んで産地を当てる「闘茶」へと発展します。
当初の闘茶は、明恵上人を始祖とする「本茶」を当てるという単純なものでした。
しかし南北朝時代に入ると、徐々に酒食を持ち込んだり賭け事を行ったりする過激なものへと変わっていきます。最終的に、過激さを増した闘茶は、足利尊氏の出した「建武式目」という法律によって禁止されてしまいました。
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日本茶の品種|ゆたかみどり
この記事では、日本で二番目に作付面積が多い品種”ゆたかみどり”についてご紹介します。
日本で2番目に多く作られる早生品種”ゆたかみどり”
2019年現在、日本で作られる緑茶のシェアの6.5%を占める”ゆたかみどり”は、”やぶきた”に次いで2番目に多く作られている品種です。
穀物やハーブ例えられる独特の香りを持ち、強い渋味と旨味を持ち合わせる緑茶用品種”ゆたかみどり”とは、どんな品種なのでしょう。
“ゆたかみどり”の特徴
“ゆたかみどり”には以下のような特徴があります。
産地は主に鹿児島県、耐病性はあるが寒さに弱い
ゆたかみどりは日本全国の生産量の内、6.5%にしかすぎないのにも関わらず、鹿児島県内では30%近くを占める、大変人気が高い品種です。南国で栽培されることが多く、鹿児島県以外だと宮崎県でもよく栽培されています。
その理由はその耐病性と耐寒性。
“ゆたかみどり”は、カビによる病気「炭そ病」に強いなどの耐病性はあるものの、霜の被害を受けやすく寒さにも弱いため、主に九州の暖かい地域で栽培されています。
繁殖力が強い上に収穫量が多いので、温暖で霜が降りにくい地域の生産者にとっては収入につながりやい品種です。
「被せ深蒸し」に適した品種
“ゆたかみどり”は1966年、鹿児島県の奨励品種に登録されました。
強い旨味を持ちながら、同時に渋味も強いという特徴を持つ”ゆたかみどり”ですが、被覆栽培で「カテキン(渋味成分)」の生成を抑えながら濃厚な旨味を乗せ、「深蒸し」にすることで渋味を抑えてマイルドなコクのある味わいを作り出すのにぴったりな品種だったのです。
今でこそ「美味しい」と評判の鹿児島県のお茶ですが、実は昔「鹿児島のお茶は安かろう、まずかろう」と悪評が立っていた時代がありました。そのイメージを覆し、鹿児島県をお茶の名産地にまで引っ張り上げたのが”ゆたかみどり”だといわれています。
摘採期が早い早生品種
摘採期が早い早生品種で、”やぶきた”より5〜7日以上早く収穫します。
“やぶきた”は立春から数えて八十八夜で新茶を摘みますが、ゆたかみどりは七十七夜で摘むため、他地域・他品種と比べて一足早く全国に流通させることができます。
一般的に新茶時期の茶市場は、流通が早ければ早いほど高値がつく傾向があります。
日本の南端、温暖な気候と長い日照時間に恵まれた鹿児島県の新茶は、その早さで値が決まるという側面もあります。そのため鹿児島県では、”ゆたかみどり”を始めとし、”さえみどり”や”あさつゆ”などの早生品種の栽培が盛んです。
特に毎年最も早く市場に出回る新茶は「走り新茶」とも呼ばれ、他のお茶よりも一足早く市場を賑わします。
“ゆたかみどり”の味わい
「被せ深蒸し」の旨味と香り
前述の通り”ゆたかみどり”は、強い旨味と渋味を持ち、ハーブや穀物に例えられる独特の香りがあります。この”ゆたかみどり”ですが、そのほとんどが「被せ深蒸し」で作られています。
鹿児島県をはじめ、”ゆたかみどり”を栽培している南の地域は日照時間が長いため、苦味や渋味が強くなる傾向にあります。それを防ぐために、被覆栽培で苦渋味を抑えながら、旨味をより強く育てているのです。
また、被覆栽培を行うことで「覆い香」が付加され、”ゆたかみどり”の独特な香気がマスキングされ、爽やかな香りを作り上げることもできます。
また、煎茶の製造工程である「蒸熱」の時間を長く、深蒸しにすることによっても渋味が抑えられ、濃くまろやかな味わいになります。
バランスの良い渋味と甘味、コクがある深い味わい、美しい水色が魅力的な品種です。
日本茶の品種|やぶきた
“やぶきた”という名称を聞いたことがないあなたでも、知らないうちに必ず飲んでいるお茶。それが日本一生産されている緑茶の品種、”やぶきた”です。
ここでは日本で最もメジャーなお茶の品種、”やぶきた”をご紹介します。
“やぶきた”は緑茶のスタンダード
日本で登録がされているお茶の品種は、2019年時点で119品種。その中でも国内で作られる緑茶の75%以上は”やぶきた”です。(2020年現在)
“やぶきた”の発祥地であり、日本全国に広まるきっかけとなった静岡県ではそのシェアはさらに大きく、90%にものぼります。
もちろん同じ品種でも栽培する土地、育て方、加工法などで多少味が変わるので、「同じ品種=全く同じ味」というわけではありません。
“やぶきた”の特徴
ここまで”やぶきた”が日本中で栽培されるようになった理由は、数々の優れた特徴にあります。
煎茶、碾茶、玉露。あらゆる茶種に適した「品質の高さ」
“やぶきた”は非常に品質が高いことが何よりの特徴です。
肥料や被覆栽培で旨味が乗りやすく、煎茶、碾茶(抹茶の原料茶)、玉露、釜炒り茶など、あらゆる茶種に適性がありました。特に煎茶としての品質は「極めて優れている」と評価されています。
クセがなく青青しいフレッシュな香りを持ち、味は旨味・渋味・苦味のバランスが良く、万人に好かれる味わいです。
強い耐寒性からくる「育てやすさ」
煎茶としての品質に優れた”やぶきた”ですが、非常に育てやすい品種でもあります。
広域適応性品種なので地域を選ばず全国どこでも栽培することができ、南は沖縄から北は新潟まで、日本のあらゆる地域で栽培されています。
お茶は一番茶萌芽後の寒さや霜害に最も警戒しなければならないほか、寒さの厳しい地域では冬季に枯れてしまうこともありますが、”やぶきた”は寒さにも強く、寒さで葉の色が変わったり、枯れたりする凍害を受けにくいのも強みです。
病気や虫害に弱いという特徴はありますが、農薬や畑を作る場所によって克服できるため、日本全国どこでも安定して作れる品種なのです。
安定した品質
今でこそお茶は挿し木で育てるのが普通になっていますが、昔は種を植えて1から育てていました。これを「実生」といいます。
実生の茶樹は育て方などによって品質にばらつきが出てしまい、茶農家が頭を抱えていたところに登場したのが、安定して高品質のお茶が育つ”やぶきた”でした。
お茶は収穫まで3〜10年、植え替えは30〜50年に1度程度とされています。
作物として非常に長いリードタイムを要するお茶の場合、品種選びは茶園の運命を左右する大事な作業。そんな折、安定して高品質なお茶が採れる”やぶきた”に人気が集まったのは必然ともいえます。
生産者の収入に直結する「収量の多さ」
“やぶきた”はもともと収量が多い品種なうえ、凍霜害を受けにくい時期に萌芽するため、他の品種に比べ、安定して多くの収量を望むことができます。
育てやすく、品質も高くて、たくさん収穫できる。それがやぶきたの特徴であり、ここまで日本中に広まった理由です。
品質や収量が安定する分、茶商も仕入れがしやすく、買い手にも困らないことから、1970年代に爆発的に普及し、現在においても不動のトップシェアを誇る、緑茶の超王道品種なのです。
やぶきたの歴史
やぶきたの歴史は1908年(明治41年)に静岡で発見されたことで始まります。
やぶきたとやぶみなみ
当時お茶の研究家だった杉山彦三郎(1857年〜1941年)は、静岡県静岡市で竹やぶを開拓して茶園を作り、お茶に関する様々な研究を進めていました。
ある時、その茶園で優良な茶の木、2本が選抜されました。
選ばれた2本のうち、竹やぶの北側に植えられていた茶の木が「やぶきた」と名付けられ、竹やぶの南側に植えられていた茶の木は「やぶみなみ」と名付けられました。
観察と実験を続けた結果、”やぶみなみ”よりも優良だった”やぶきた”一本に絞り、そこから品種改良を重ねて出来たのが、”やぶきた”です。
一気に広がった昭和時代
何年もの研究の末に生まれた“やぶきた”ですが、実はこの品種、誕生後すぐに高い評価を得られたわけではありませんでした。
茶畑の改植はお金も時間もかかる作業ですし、”やぶきた”が誕生した当時、また「お茶の品種」という考え方は非常に新しく、先祖代々の畑で変わらずお茶を作る生産者が多かったのです。
杉山彦三郎の死後10年以上が経った戦後にやっと高い評価がつきはじめ、1945年に静岡県の奨励品種に指定されたり、1953年に農林水産省の登録品種になったりしたことで、一気に全国に広まり、972年には品種茶園の88%がやぶきたとなりました。
現在は静岡の天然記念物に
100年以上前に発見され、緑茶の歴史を作ったやぶきたの母樹は実は今も存在し、元気に青々とした葉をつけています。
静岡県の天然記念物に指定されたやぶきたの母樹は樹齢110年を超える老木となり、現在は地元の人やお茶好きの観光客などがこの母樹を見に集まっています。
お茶の製造工程
皆さんは普段飲んでいるお茶がどうやって作られているのかご存知でしょうか。今回はお茶全体の製法や製造工程について大きくまとめました。収穫された生葉が出荷されるまでの主なプロセス、お茶を作る上で大切な「荒茶」と「仕上げ」について、さらに茶種ごとの製造工程の違いなどを解説していきます。
収穫された生葉が出荷されるまでの主なプロセス
お茶の葉は茶園で栽培され、収穫時期になると生葉は摘み取られます。その後、多くの製造工程を経た後、全国へと出荷されて私たちの手元に届くのです。この製造工程はお茶の種類によって様々ですが、主な流れとして「荒茶」と「仕上げ」の大きく2つに分けられます。その「荒茶」と「仕上げ」について見ていきましょう。
荒茶ができるまで
荒茶とは、仕上げがされる直前まで加工がされた茶葉のことで、出荷の直前まではこの荒茶の状態で保管がされます。
お茶の生葉には酸化酵素が含まれ、摘み取ったその瞬間から酵素の働きで発酵(酸化)が始まります。緑茶のように発酵させずに作るお茶は摘み取った後すぐに加熱処理を行い、生葉がもつ酵素を失活させます。その後、揉捻・精揉・乾燥などの工程を経て「荒茶」が完成します。
逆に紅茶のように茶葉を発酵させて作るお茶は、萎凋や揉みを行った後に高温多湿の発酵室で十分に発酵させます。しっかり発酵させた後に乾燥させて「荒茶」ができます。
発酵(酸化)
茶葉に含まれる酸化酵素の働きによって、摘み取った後すぐに発酵が進みます。この発酵は酸化酵素による酸化を指し、微生物が行う発酵とは異なります。
ただし、後発酵茶のように、微生物の発酵で作られるお茶も一部あります。
失活
加熱などの処理を行って酵素の働きを止め、発酵させないようにします。失活の方法としては、主に「蒸し製」と「釜炒り製」があります。
揉捻
茶葉に圧力をかけながら揉み、茶葉の水分を均一にしていくとともに、茶葉の成分が出やすいようにします。
精揉
茶葉に熱を加えて乾燥させつつ、一定方向にだけ揉みながら茶葉の形を整えます。
乾燥
念入りに熱風をあてて、茶葉をさらに乾燥させます。
これで「荒茶」の完成です。
仕上げ
荒茶の状態だと、形はまだ不揃いで水分が抜けきっていないため、このままだと製品としては出荷できません。そこで今度は「仕上げ」を行います。「仕上げ」は、「選別・整形 → 火入れ → 合組」の順に行われ、計量や検査・包装を経て出荷されます。「仕上げ」を行うことで、長期保存が可能になり、お茶の香味をよりよくする効果もあります。
選別・整形
荒茶をふるいにかけ、細かい茎などを取り除き、葉の大きさで選別します。さらに切断などの加工を行い、形を整えます。
火入れ
最後にもう一度火を入れて乾燥させることで、保存性を高めるだけでなく、お茶の香りを引き出します。
合組
最終調整として製品の配合や品質を均一にするために「合組(ブレンド)」を行います。
その後、計量や検査・包装を経て製品として出荷されていきます。
茶種による違い
お茶の製造工程は茶種によって少しずつ異なり、発酵の具合によって「不発酵茶」「半発酵茶」「発酵茶」「後発酵茶」の4つに分類されます。さらに、そのお茶を使って加工したものに「花茶」があります。では、それぞれについて解説していきます。
不発酵茶(緑茶・抹茶など)
「不発酵茶」は、生葉を摘み取った後、茶葉がもつ酸化酵素によって発酵が起こる前に加熱処理をし、発酵させずに作られるお茶です。
不発酵のため爽やかな香りと綺麗な緑色を保ち、ここに加熱の香ばしさが加わることで、上品な味と香りを生み出しています。
半発酵茶(烏龍茶など)
「半発酵茶」は、発酵を頃合いの良いときに止めて作られるお茶です。不発酵茶とは違い、まず生葉を萎れさせ発酵させることにより、酸化酵素などが働いて香気成分が作られ、特有の香りが生まれます。
緑茶と紅茶、それぞれの発酵度合いの、ちょうど中間ぐらいに位置します。
「半発酵茶」は発酵の度合いによってさらに細かく分けられ、「白茶(パイチャ)」「黄茶(ファンチャ)」「青茶(チンチャ)」などがあります。
発酵茶(紅茶)
「発酵茶」は、酸化酵素によって茶葉を十分に発酵させた後に作られるお茶です。半発酵茶と同様、生葉を萎れさせてから発酵させているため、酵素が働いて様々な香気成分が作られますが、半発酵茶より発酵時間が長いため、より華やかな香りが特徴です。
世界で最も消費されているのがこの「発酵茶」です。
後発酵茶(プーアル茶など)
「後発酵茶」は、酸化酵素ではなく微生物の働きによる発酵で作られます。
後発酵茶は使用される微生物によって味わいが変化し、麹菌の発酵によるものに中国の「プーアル茶」が、乳酸菌の発酵によるものには高知県の「碁石茶」などがあります。
花茶(ジャスミン茶など)
「花茶」は、緑茶や白茶、青茶などに花や果実で香り付けをして作られます。
代表的なのはジャスミン茶で、その上品な香りから日本でも人気の高いお茶の一つです。
ほうじ茶の製造方法について
日本のお茶として緑茶と同様に多くの人々に親しまれている「ほうじ茶」。「ほうじ茶」特有の香ばしい香りやあっさりとした口当たりは、一体どのようにして生み出されているのでしょうか。今回はその「ほうじ茶」の製造工程について詳しく解説していきます。
ほうじ茶の製造工程の特徴
ほうじ茶は、加工後の緑茶を、約200℃で褐色になるまで焙煎して作られます。本来は上等でないお茶を美味しく飲むための加工法であり、主に茎茶や番茶などの低級茶が使われていました。
一般に、一番茶の遅い時期の葉を原料にしたものは上質とされ、他にも上茎茶を焙じた「茎ほうじ茶」もあります。
焙煎で何が変わるの?
茶葉が焙煎されることにより香気成分である「ピラジン」が生成され、独特の香ばしい香りが茶葉に生まれます。さらにお茶独特の渋みが和らぎ、あっさりと飲みやすい口当たりに仕上がります。
元は緑色だった茶葉が茶色く変化するのも、このピラジンが生成されるためです。
ほうじ茶は自宅でも作れる?
本来は「際焙烙」と呼ばれる道具を使って焙じますが、実は家庭にあるフライパンでも焙煎ができます。今回はフライパンで簡単にほうじ茶を作る方法をご紹介します。
- フライパンを温める前に茶葉を平らに広げ、中火にかけます。
- すぐに混ぜずに、そのまましばらくじっと待ちます。
- 香りが立ち始めたら木べらで混ぜ、焦がさないよう注意しながら、好みの加減に色付くまで煎って完成です。
- 淹れるときは、香りを立たせるために熱湯を使い、少し濃いかな、と思う程度まで時間をおいて抽出させます。(目安は30秒ほど)